悪役令嬢と夏のカフェ
カフェで聞いた「月光ソナタ」、私は何故だか泣いてしまった。
私は音楽的なことは何も分からない。だけど、この曲を作った人が狂おしいほどの恋をしていることだけは分かった。
曲が終わった後、ひよりちゃんは楽譜と、目元を赤くした私を交互に眺めて「こんな演奏、できないもんなぁ」と肩を落とした。
「プロが弾いてるってだけじゃなくて、多分わたしの月光聞いても、華ちゃんは泣かないと思うから」
「そうかな?」
「うん、わたしのは……譜面通りに音が鳴ってるだけだ。そんなの、音楽じゃない」
しかもそれすらミスるし、とひよりちゃんは笑って私に言う。
「いつか、絶対、華ちゃん泣かす」
「あは、なにその宣言!」
私は笑って「楽しみにしてるね」とカフェオレを飲んだ。泣くと喉が乾いちゃうのだ。からん、と氷が音を立てた。
そのあとひよりちゃんは用事があるとかで、手を振ってまた炎天下を駆けていく。
「若い……」
「若いっていうか元気だよね」
ふふ、と千晶ちゃんが笑って、そして表情を凍りつかせた。
「げ」
「なに?」
むす、とした千晶ちゃんの顔の原因はすぐ分かった。
「やぁ」
カフェに入ってきた真さんが、美しく笑う。
「な、なにをしてるんですか」
「お迎えだよーん」
真さんはヒラヒラと手を振る。
「今からクソ親戚との楽しいパーリィだからね。千晶、諦めて行くよ」
「行きたくありません」
「僕だって行きたくないよ」
楽しげに真さんは笑う。千晶ちゃんはむむっと眉をひそめて、諦めたように息を吐いた。
「……わかりました。身繕いに、少しお手洗いへ行ってきます」
「ついていこうか?」
「ぶちますわよ」
「あは」
結構本気な声色の千晶ちゃんに、真さんはマジで嬉しそう。
「いいですかお兄様?」
「なんだい千晶」
「華ちゃんと会話をしないでください」
「なんで?」
「余計な! ことを! するから! です!」
「ひどいなぁ」
「ひどくありません。華ちゃん、なにかされたら言って」
「は、はぁい」
千晶ちゃんは睨みをきかせつつ、席を立つ。ちらちら振り返る千晶ちゃんが視界から消えると、真さんは千晶ちゃんの言いつけを完全に無視して私に微笑みかけてきた。
「元気そうだね」
「はぁ、おかげさまで」
「ふふ、そんなに緊張しないでよ」
「……はぁ」
誰のせいだと。
じとりと目線を向けると、真さんは吹き出した。
「やだなぁ、ほんと。僕、何かしたっけ?」
「色々と、まぁ、お世話にはなっておりますから?」
「含みのある言い方だねぇ」
真さんは、そして、まるで天気のことを話すかのような気楽な口調でこう言った。
「ねぇ、そういえば以前樹クンとお話ししたことがあってさ」
「はぁ」
「もし好きな人ができたらどうする? って聞いたことがあって」
「え」
私はびくり、と身体を強張らせた。
「だって、許婚いるのに、好きな人とかできちゃったら大変じゃない?」
「は、あ、そう、ですね」
私は膝の上でぎゅうと手を強く握る。なんの、なんの話?
「だから、聞いてみたんだ。好きな人」
真さんはわざとらしく「好きな人」を連呼した。
「好きな人、できたらどうするのって」
私は無言で唇を噛み締めた。
(聞きたくない)
樹くんは、なんと答えたんだろう?
(聞きたくない)
私は立ち上がって、ここを出るべきだ。できなくとも、千晶ちゃんのところへ行くべきだ。この人の言葉に耳を傾けちゃダメ。
そう思うのに、身体が硬直して、動けない。
どこかで期待してるんだ、望む答えを、樹くんが言ってくれたんじゃないかって。
だけれど、真さんの三日月みたいな弧を描いた唇から出たのは「地獄だってさ」という、あまりにも辛い答えだった。
「……地獄?」
「そう。好きな人ができちゃったら、君と許婚続けるのは、地獄だろうなって」
「うそ」
私はなんとか、そう返した。
だって樹くんは優しいもの。そんな風に私を拒否するなんて思えない。
私の気持ちが迷惑だとしてもーーバレさえしなければ。押さえつけてさえ、いれば。
「嘘じゃないよ? 僕は嘘なんかついたことない」
「うそ」
「えー、ほんとなのに。でも、まぁ」
真さんは楽しそうに笑う。
「樹くんは簡単には婚約破棄できなくなったよね? 両親との顔合わせまで済んで。これで破棄したら、君はもうキズモノとして見られちゃってるかもだし、樹クンは樹クンでそこまでしてた許婚捨てるんだぁって見られちゃう」
それから、不思議そうに私の顔を覗き込む。
「あれ? 泣いてるの?」
「……泣いてません」
「そうかぁ、君は嘘つきだなぁ、僕と違って」
「うそ」
私は真さんを睨みつける。
「うそに決まってる」
「疑うねぇ、ええと、じゃあさ」
真さんは笑った。
「証拠をみせてあげる」