悪役令嬢、水をかける
樹くんのご両親に会う、って日の夕方。
ひぐらしがカナカナ鳴いてるそんな夕方に、私は呆然としていた。
「……ハナ?」
「……」
「ハナ?」
「あっごめん天使が……天使がいたのかと」
「大げさだなぁ」
上品なジャケットと、控えめな青のタイ、それからショートパンツ。ショートパンツが似合う中2男子、圭くん。すらりとした白いおみ足。
(……私より細くてらっしゃる)
私、なぁ。最近、そこそこ太っ……げふん、肉付きが良くなってきた気がする。食べてるし。食べるの好きだし。
「……考えてることは分かるよハナ、でもハナも随分細い方だからね?」
「お気持ちだけありがたく……」
「本当にキャシャなのにハナは」
手首を優しく支えるように持たれて、「ね? こんなに細い」と微笑まれる。優しく揺れる翠の瞳。
(……天使オブザイヤー受賞)
自分でも何言ってるかわかんない。くらくらする。可愛すぎて。目に録画機能がついてたら、千晶ちゃんに転送するのに……。
「まぁとりあえず着替えて来なよ、シマヅさんくるよ」
時計を指さされ、「あ」とひとこと呟いて、私はぱたぱたと自室で紺のワンピースに着替える。
今日もお仕事な敦子さんとは、ホテルで直接合流なので、圭くんとふたり、島津さんの運転する車で横浜のホテルへ向かう。
いつだか、樹くんと初めて出会ったお茶会をしてた高級ホテルだ。ふかふかの絨毯。
「あ、あれでしょ。あのラウンジ」
圭くんに指さされ、敦子さんとの待ち合わせのラウンジへ向かう。
空いていた席に案内され、テーブルにお水が置かれる。紅茶を注文(種類は圭くんにまかせた)して、私はお隣の席の若い男女の様子がなんだかおかしいことに気づいた。
「……急に別れる、ってなに」
「だからさ」
男の方は、ややめんどくさそうに続ける。
「結婚するから」
「それが意味わかんない、どういうこと? 浮気してたの?」
「浮気っていうかさ」
男は笑った。
「お前が浮気相手」
「そ、んな」
女性は微かに震え、握ったコーヒーカップがカタカタと揺れる。
「だからもう、プライベートでは会えないから」
「……!」
「仕事ではよろしくな? ははは」
「わ、たし、」
ぽろり、と女性の綺麗な目から涙。
「きょ、う、あなたにい、言いたいこと、が」
「あ?」
「おなか、に、赤ちゃん、が」
「……は?」
男は眉根を寄せて言い放った。
「おろせよ、ンなも……冷たっ!?」
「あなたがお切りになったら? 避妊もしないその(自主規制)を」
「ハナっ!?」
男の脳天から冷たい水を……ええ気がついたらかけてました。気がついたらかけていた。かけるつもりではなかったなどと供述しており……いやわざとなんですけど。
「お姉さん、これくらいはなさってもいいと思いますよこんな(自主規制)」
ふと、この女の人、どこかで、と思った。なんとなく見たことがあるような、ないような。
「ハナ落ち着いて」
圭くんが慌てて立ち上がり、私を男から引き離す。
「テメ、なにすんだよっ」
「こちらのセリフですっ女の敵! 成敗! 成敗!」
「落ち着いてハナは暴れん坊なあのお方ではないから!」
私は涙目でクソ男を睨みつける。
男は立ち上がり「親どこだ!」なんて怒鳴りつけて私と睨み合う。
圭くんが私とその男の間にぎうっと入って「でもおれもアナタが悪いと思う」なんて言っちゃうもんだから、男は余計逆上して「退け!」と圭くんの肩をつかもうとして、でも、それはできなかった。
「俺の許婚の非礼は詫びよう、成田」
「なんだてめ、あ、え、樹様?」
男の手は樹くんにぎゅうっと握られて動けないようだった。
(成田?)
え、樹くんの知り合い? 樹様て。
「い、樹さま」
女の人も立ち上がっている。
「座っておけ、和泉。その、妊娠しているんだろう」
「あ、は、ですが」
「無理はするな……、成田」
樹くんはその人を見下ろした。少しだけ樹くんの方が背が高い。肩幅とかはまだ大人の男の人と比べるともちろん細いけど、かなり圧があると思う。
「……いや、その」
「話を聞かせてもらおう」
「あの、違って、ですね、樹様」
「違わないだろう。お前は部下に手を出して妊娠させた挙句、別の女性と結婚するんだな?」
「いやあの、違うんです!」
それでも「違う」と弁解をしようとする男、成田さん? に樹くんは眉をしかめた。そして周りを見渡す。さすがに他のお客さんの視線がちらちら、と。
樹くんは何か考えると「……今日の夜、北野先生を通じて連絡をいれる」と言った。
「構わないか? 和泉。お前にも北野先生から連絡が行くと思う。話し合いの場を作ろう」
「あ、北野先生……弁護士、の」
「個人的なことに首を突っ込みたくはないが、……コイツは信用ならん。大事な部下をこれ以上傷つけられたら困る。無粋を許してくれ。俺のワガママだ」
「あ、……はい」
樹くんの優しい口調。私はこんな時なのに、ドキリとして樹くんを見た。
(……だよね、樹くんは私だけに優しいわけじゃない)
樹くんの、ほんの少し鋭い目つき、でもその目がひどく優しく彼女を見ていて、それが恋愛感情に基づくものではないと知っていてなお、しかもこんな時でさえ、私は……、なんだろ、この感情。
(私って嫌な性格だ)
自分が樹くんの「特別」じゃないってこと、分かってたはずなのにーーそう、落胆してるんだ。何を期待していたんだろ。ばかみたい。
(ええいしっかりしなさい華、あなたは大人なのに!)
そう思うのに、胸が痛いのはなんでだろ。
「違うんです、本当に! 俺はこ、この女にだまされて」
「弁解はいらん。行け」
「い、樹様」
「行けと言っている」
冷たい目で見られ、成田とかいう人は肩を落とし、びしょ濡れのままでラウンジを出ようとする。
「わすれもの!」
圭くんはご精算書、とかかれた紙を成田に握らせる。さすがの判断。
「クリーニング代はイツキ経由で請求して」
そういいそえると、成田はびくりと肩を揺らして去っていった。
「和泉、大丈夫か」
気遣う、優しい声。私が勘違いしちゃう声。
(……やっぱりね)
樹くんは優しいんだ。ひたすらに。
ちょっと切なくなる。
こんな風に優しくしてもらえるのは、私だけの特権ってわけじゃない。
(樹くんは、身内にすごく優しい)
私は単に、仲のいい友達な上に「許婚」だから。その責任感もあって、あんなに優しくしてくれてるのに。そう、私は私が「特別」であるかのような勘違いをしかけてた。危ないね、中身は大人なのに。
(……今はこの人のこと!)
気持ちを切り替える。
「ごめんなさい」
私は和泉さんに頭を下げた。
「余計なことを」
「い、いえいえっ」
和泉さんは笑ってくれた。
「華様がああしてくださったので、わたくしかえって落ち着きました、し……ちょっとスッキリしました。ふふ」
「そうですか……? え、てか、名前」
「お顔の方はちゃんとは存じ上げませんでしたが、先程樹さまが許婚、と」
「……、てかどういう関係?」
私が樹くんを見ると「華も会ったことがあるはずだ」と言う。
「いつ?」
「松影ルナの塾の件」
「……あ! 松影ルナを教室から連れ出す時に」
ルナの肩を抱いて出て行った女性!
「俺の、なんだ、祖母による訓練の一環で簡単な仕事をしているのだが、そのサポートをしてくれている」
「サポートだなんて!」
和泉さんは手を振った。
「中学生だとは、とても。その辺の大人よりしっかりなさっていて」
「さっきの成田もその一人、なんだが……外れてもらうことになるだろうな。信用ならん人間はいらん」
ものすごく冷たい目をして、そう言う樹くん。冷徹といってもいいかもしれない。
(……こんな目するんだ)
なんやかんや年相応な子だ、と思ってたけど。
(なんなら私の中身よりオトナ? でも)
そういうプレッシャーとか、どうなんだろ、つらく、ないのかな。
ちょっと首を傾げて樹くんを見つめる。樹くんはふっと笑って私の髪を撫でて「ああ、紹介しよう。うちの両親だ」と振り返った。
(……は?)
私はぎぎぎ、と固まったままそちらに目をやる。
立ったまま、にこやかに笑うひと組の男女。
(目はお母さん似だなぁ、って違う!)
……あの。私、第一印象、最悪だったんじゃない?