【side樹】アイスコーヒーと夏空
無性に腹が立って、目の前にあったアイスコーヒーを全部飲み干した。
苦い。まずい。
氷が溶けて薄くはなっているようだったが、どちらにしろ苦い。
(大人になればコレが美味しいのだろうか)
理解の範疇を超えるが、きっと美味しいのだろう。
ふう、と一息ついて席を立ちながら、俺は考える。
(迷うことはない)
事情は分かったし複雑かもしれないが、よく考えれば大した問題ではないのだ。
(なぜなら、華はこのまま俺と結婚するからだ)
ふん、と鍋島さんの顔を思い浮かべながら思う。
(残念だったな)
揺さぶりをかけたかったのかもしれないが、なんの問題もない。婚約破棄など有り得ない。
以前、華に言ったことがある。
嫌な思いを1つもして欲しくない。悲しい思いをして欲しくない。辛い思いもして欲しくない。楽しくて嬉しくて幸せな思いだけして、俺の横で笑っていて欲しい、と。
華には思うところがあったようだし、俺もそれも道理だとは思うが、譲る気はない。
(好きだから。愛してるから)
アイスコーヒーも美味しく飲めない子供が、愛だなんて大仰な言葉を使うべきではないのかもしれない。しかし、他に言い表す語彙を持ち合わせてない。
(これが愛しいと思う気持ちでないなら、他にそんな感情はいらない)
そう思ってしまうほどに。
カフェテリアを出ると、さっきまでいた外がいたく眩しく感じた。目を細め、空を見上げた。まだまだ明るいが、近付く夕方を内包すような青。素直に綺麗だと思う。少し気分も落ち着いて、目線を戻すと、華がいた。
こざっぱりした夏の制服が、なぜだか酷く似合った。
「あ、樹くん」
にこりと微笑まれる。
(なんで)
急なことに、考えていた本人が目の前に現れたことに、思わず固まる。夏休み、部活もない彼女がなぜ学校に、それも高等部側にいるのか。
「あ、びっくりしてる。珍し」
「……多少。圭か?」
「うん、今日提出の美術部の課題、忘れてたんだって。いま届けたところ。ついでにお散歩してたの」
この学校ムダに広いよね、と俺を見上げて笑う華。
(ああ、)
俺は微笑む。
(やはり、俺の気持ちに迷いはない)
華を守る。幸せにする。笑っていてもらう。至極シンプルなことだ。
そのついでとして、彼女の気持ちが俺に向いてくれたら、いいと思う。
「……ここは高等部だぞ」
「え、あ、そうなの!? じゃあ随分ふらふら来ちゃったんだ。へぇ~」
そっかそっか、となぜか納得したようにぐるりと建物を見上げたり覗き込んだりして、少し面白そうに笑う。
「綺麗なとこだよね、やっぱり」
「? 高等部には何度か来たのか?」
「あは、いやぁ初めてなんだけどね~」
ふにゃりと笑う華を抱きしめたくなって、その衝動をぐっと抑える。
「……散歩するなら、付き合おうか」
そう言ってから、慌てて言い添える。
「高等部もたまに来るから、案内くらいならできる」
「え、ほんと? いいの? 忙しくない?」
「練習も終わったところだ、問題ない」
華のためなら、スケジュールなんかいくらでも変更してやる。
俺が笑うと、華も笑った。
幸せなことだと思う。
とはいえ、見て楽しいところか。ふむ、と考えて提案する。
「そうだな、庭園がある。なかなか立派な」
「エッ」
ぎくり、とした顔で華は俺を見る。
「? 何かあるのか? 植物系のアレルギーとか」
「う、ううん、そんなのはないんだけど……せっかくだから見てみようかな」
なぜか緊張した面持ちの華を連れて、高等部の庭園に向かう。
「春には桜が美しいのだが」
華は桜が好きだから、喜ぶだろうと思う。その頃にまた、連れてこられたらいいなと思う。
「ここの桜はいいかなー……」
「? そうか?」
「うん、別のとこでしよ、お花見」
なぜか華は苦笑いしてそう言う。まぁ華がそう言うなら仕方ない。
桜は緑の葉を青々と伸ばして、濃い影を作っている。華は日向があまり得意でないので、その下を通って庭園をまわる。
「わぁ、やっぱきれい」
「? 来たことが?」
「ううん、えっと、あ。入学するときにパンフレットで」
「ああ」
いちおう名物というか、有名な庭園だ。石造りの噴水が涼しげで、高等部の学園祭の折にはティーパーティーなんかに使われる。
そのことを話すと、華は「普通は学園祭でティーパーティーなんかしない」と笑った。そういうものなのだろうか?
薔薇垣には少し小ぶりな薔薇がちらほら咲いていた。秋に咲かせた方がきれいなので、夏はつぼみを摘むらしい。とはいえ、植物が成長する夏だ、全て摘みきるわけにはいかないのだろう。次から次に花は咲く。
(華は)
薔薇みたいだと、以前から思っている。いかに本人が控えめにしていても、誰もが惹きつけられてやまない。そんな存在感。
(……惚れているから、そう思うのか)
やはり誰からも、そう見えているのか。
「華」
不安になる。守ると、笑っていて欲しいと、それだけでいいと決めたばかりなのに、華の笑顔が他の誰かに向けられたらどうしようと、そんな風に思ってしまう。俺への気持ちなんか、ついでで良いと思ったはずなのに。
「なあに」
どこまでも俺を信頼する目で俺を見上げる華に、そんな華が愛おしくてたまらなくて、俺はそっと彼女の前髪をかきあげて、そこに唇を落とした。
「? イタリア人取り憑いた?」
「ふ、なんだそれは」
思わず笑いながら、華の髪を撫でる。
「俺の意思だ」
「そ、うかぁ」
華は少し目線を落とした。長いまつ毛がほんの少し、震えた。華の耳が赤くて、俺はひどく動揺した。
欲しくてたまらなかったものが、手に入るかもしれない予感に、知らず手に力が入る。
ざあっ、と強い風が吹いて、夏の夕方のにおいがした。
華が俺を見上げて笑う。
髪がぐちゃぐちゃになっちゃう、と笑うから、俺はやっぱり彼女がとても愛しいと、脈絡なくそう思うのだった。