【分岐・鹿王院樹】悪役令嬢は温泉でのんびりしたい
「あっつー」
私は車から降りて開口一番にそう叫んだ。敦子さんも億劫そうな口調で「避暑も何もあったもんじゃないわね」と苛立たしげに呟く。
敦子さんは朝からこんな感じだ。とにかく親戚に会いたくなくて会いたくなくて仕方ないらしい。
できれば私にも、樹くんとの婚約の顔合わせくらいまでは会わせたくなかったみたいだけど、そういう訳にもいかなかったみたい。
(親戚づきあいってめんどくさいよね)
「華、圭、いいこと? 腹立つこともあるでしょうけど、あんなヤツら怒ってやる価値もないわ。無視よ、無視」
ぷんすか、と同じことを何度も繰り返す敦子さん。
私と圭くんは「もう、わかりましたよ」と返事をしながら周りを見渡した。
純和風の老舗旅館の駐車場、そこには国内外問わず黒塗りの高級車(運転手付き)がずらりと。その中で、敦子さんの赤いスポーツカーは異彩を放っていた。
「運転もしない癖に車買うんじゃないわよ、ねぇ!」
とにかく全てが腹立つらしく、鼻息荒く旅館の入り口へ向かう敦子さんに続く。
「敦子様、華様、圭様。ようこそいらっしゃいました」
「来たくなかったわ」
「そうおっしゃらず」
駐車場を駆けてきて、苦笑するスーツ姿の男の人は、きっと旅館の人。私たちから荷物を受け取った。
「もう皆様お揃いです」
「お揃わなくていいのに」
変な日本語で抵抗を示し、いかにも嫌々な態度で旅館に入る敦子さんと、おセレブ旅館をキョロキョロ眺める私。圭くんは淡々としていた。
敦子さん曰く「地獄の暑気払い」の始まりである。
梅雨が明けたばかりの七月半ば、一泊二日をここ、箱根は強羅で過ごすのだ。
今日の夜は親戚だけの食事会があり、明日には朝からお客さんがたくさん来ての昼食会だそうで。
(きれー)
年季の入った、黒く艶のある木の梁。ロビーの奥は一面大きな窓で、箱根の濃緑の木々がきらきら輝いて見えた。
「誰かに会っちゃう前に部屋に避難しましょ」
敦子さんがそう言ったその時、背後から声がした。
「あら敦子様、お早いお着きね」
敦子さんの表情が一瞬固まって、振り返りながら笑顔になった。
振り返った先にいるのは、40歳くらいの、訪問着姿の女性。きっちり髪を結い上げて、垂れ目で優しそうなのに、その表情は酷く冷たい印象を与えるものだった。
「あーらアカネさん、もういらしてたの」
「やだわ敦子様ったら、おほほほほ」
「ほほほほほほ」
(タヌキだ! タヌキとキツネの会話だ!)
大人の会話をみながら私はアカネさんを見る。
びくびくしながらそれを見ていると、アカネさんは私に気づいて、酷く嫌な目をして笑った。
「これが噂の華さんね」
「……はじめまして」
ぺこりと頭を下げる。敦子さんは私とアカネさんの間に入り「さ、部屋へ行きましょ」と言った。
「そう言わないでくださいませ敦子様、綺麗なコじゃないですか。頭も良さそう」
「……なにが言いたいの?」
「いえ、二十歳を幾ばくか過ぎたら、政治家のご令室でも十分勤まったのではないのかしらって」
「アカネさん!」
敦子さんは大声でそれを遮った。
「この子は鹿王院樹さんと婚約しているんです」
「ご披露も未だ。なんとでもなりますわ」
「……行きましょう、華」
「? あ、はい」
頷いて、後に続く。担当の仲居さんが澄まし顔でカードキー片手に先導する。
(すごいな仲居さん、あれ見て顔色ひとつ変えず……ってか、政治家って)
ものすごく嫌な予感がする。
(もしかして真さん?)
あの人の許婚にされちゃう可能性もあったってこと!?
(ややややヤダ!)
私はぷるぷると首を振った。
(あんな人の許婚なんて、おもちゃにされる未来しか見えない!)
ひとりで青くなってーー気がついた。そしてふと思う。
(え、あのひと……アカネさん、だっけ? 圭くんを無視してた?)
す、と圭くんを見るけれど、圭くんは気にもしてない。
「なに、ハナ」
「ううん、なんでも」
気づけば宿泊する部屋の前だった。この旅館、そもそも平屋らしい。地下にプールはあるらしいけど。
「うわぁ」
すごい部屋だった。玄関っぽいのもあるし。ドアはカードキーらしくて、ひとり一枚受け取る。
「こちら本間、それからあちらが広縁でございまして、広縁のガラスの先正面に見えますのが露天風呂でございます。右手奥に洗面室と内風呂がございまして、スチームサウナがついてございます。そちらからも、広縁からも、露天に出入りしていただけます。寝室は三部屋ご用意させていただいております。奥の間はあちらから」
「お風呂っ!」
私の機嫌は急回復した。岩で出来た露天風呂!
「掛け流しでございますよ」
仲居さんがにこにこと言ってくれて、私は小躍りするように広縁まで駆ける。
掃き出し窓の向こうは濡れ縁になっていて、その先には立派な露天風呂。広縁には障子がついてるから、ちゃんと目隠しもできる。
「こら華、はしたない」
「ごめんなさい、だって嬉しくて」
こんな豪華な部屋泊まったことないんだもの!
広縁にはリラックスチェアが2つ。
(めちゃくちゃノンビリできそう~)
敦子さんは肩をすくめて、仲居さんはとても嬉しそうに「可愛らしいですね」と言った。
「お転婆で」
敦子さんは苦笑いしながら言う。
「いえいえ、……お茶をお淹れ致しましょうか」
「いえ、自分で。好きなの。ありがとう」
「左様でございますか。では、何かあればお知らせください」
仲居さんが出て行くと、敦子さんは「あーもーめんどくさーい」とリラックスチェアに座り込んだ。
「さっきの、誰ですか?」
私も敦子さんの隣の椅子に座ってみながら聞く。
「あー、あれはね、アカネさんって言って、まぁあれよ、あたしの兄の嫁」
「……嫁?」
(娘じゃなくて?)
「えと、敦子さんのお兄さんって」
つまり、圭くんのお爺ちゃん。
「70過ぎた色ボケジジイよ」
「うわぁ」
じゃあさっきの、圭くんの、ええと、おばあちゃん!? ……じゃなくて、そうか、後妻さんのほうか!
(圭くんをいじめてたっていう!)
私の表情に気がついて、敦子さんは頷いた。
「そ、あのヒトが例の後妻。元々愛人だったんだけど」
「ひゃぁ」
に、2時間ドラマみたい……。
「前の奥さんとは死別してるわ、……いきなり親戚どもに会っても訳わかんないだろうから、ざっと説明することにしましょうか」
敦子さんは面倒臭そうに立ち上がり「お茶淹れるわね」と言った。
「おれ淹れますか?」
「いいわ、ちょっと、落ち着きたくて」
敦子さんは手際よく緑茶を淹れる。
「はい」
「ありがとうございます」
(美味し)
お茶をはふう、といただきつつ、圭くんと並んで、話の続きを聞くことにした。
「圭は親戚どもに関しては?」
「ほとんど知らない」
圭くんは首を振った。
「こないだの親戚周りと、とーさんの入院のときに、オジーさんちにちょっといたくらい」
私は思い出して、少しむかっ腹がたつ。だって、言うに事欠いて「死神」とは何よ「死神」とは!
(こーんなに綺麗なコ捕まえてさ!)
失敬しちゃうよなぁ。
「まぁ、あたしの兄、単なる色ボケジジイに過ぎないんだけど、一応偉いサンなのね」
「偉い人」
ザックリした説明だ。
「そんで兄には前妻との間に息子が3人。あたしから見て甥たちね。長男が後継ぎってことで、会社いくつか経営してるわ。次男も系列会社で働いてる。三男が圭、アナタのお父さん」
圭くんは頷いた。病院で入院中の、圭くんのお父さん。手術はうまくいって、今は投薬治療中だ。
「で、色ボケジジイにはもう1人子供がいて、それがさっきのアカネさんとの娘。確かシュリ、とか言ったかしら」
「シュリちゃん」
たしか、私と同じ年なんだっけか。
「あのね、かなり気が強い子よー」
「ええと、来てる?」
できれば会いたくないなぁ。
「来てるわよ、あまり話さないほうがいいわね……長男と次男の子どもたちも何人か」
ちらり、と圭くんを見ると「まあなんか普通の人たちだったよ」と肩をすくめた。親戚周りのときに会っていたのかな。
「それから他にも有象無象のよくわかんない親戚が来てるけど、それはもう無視していいわよ、あたしも覚えてない」
敦子さんは本当にめんどくさそうに窓の外に目をやり、「あら、セミが鳴いてる」と小さく呟いたのだった。