祖父の家で
翌日の空は、私の気持ちのようにどんよりと曇っていた。
祖父の家は実家から車で三十分、大きな湖のある町の山沿いにある。
高速を降りて湖岸沿いを走り、山へ向かうにつれて道が細く周りは青々とした雑木林になっていく。
舗装された道路が途切れて車がガタゴトと揺れながら進む、ポッカリと木々の間から茶色の切妻屋根が見えてきた。祖父の家へ訪れるのも三年ぶりだ。
車の音に気がついて、家の中から先に着いていた大叔母が顔を出した。
「伊音ちゃん、紅実ちゃんいらっしゃい。忙しいところ、ありがとう」
伊音ちゃんとは母の名前だ。
「私もさっき着いたところで、窓開けてまわってたんだけど…この家、小さいのに部屋数多くてまだ全部終わってないの」
「無理しちゃ駄目よ!ユキさん腰を痛めてたでしょ。高い所と二階は娘をこき使って」
「まあ、ごめんなさいね〜。紅実ちゃん、助かるわ」
本人をおいて勝手に話が進んでいく。
「たまに掃除しに来てたんだけど、行き届かなくて埃っぽいのよ。古い家だしあちこち直すところも追い付かないし。あ、スリッパ使ってね!靴下が真っ黒になるから」
大叔母は愚痴になりかけた会話を切り上げると、恥ずかしそうに笑ってスリッパを二足並べて奥へと入っていった。
生け垣に続く門扉を押すとギィっと軋んだ。でこぼことした石畳がくねくねと玄関まで続き、その上に雑草があちこちから顔を出して覆い隠している。
気を抜けば躓きそうだ。
「お邪魔しま…」
言いかけたときに視線を感じた。
ぐるっと庭を見渡すと裏庭へ続く垣根を猫がすり抜けるところだった。
「にゃーお」
呼んでみると、ピクリと身を固めたが振り返りもせず垣根の奥へ消えていく。
「お返事くれないのね。野良かな?」
「紅実子、何してるの?」
「はーい」
「さっさと片付けないと終わらないわよ。ほんっと、ぼーっとしてるんだから」
いつの間に着替えたのか、エプロンをたくし上げて母はぶつぶつ言いながら雑巾を絞っていた。
「あなたは二階と奥の部屋の窓を開けてきて。階段、急だから気をつけてね」
「は〜い」
玄関から上がり、廊下の右側にある木の引き戸をぐぐっとスライドさせると隠し階段が現れた。
昔はこの隠し階段が忍者屋敷の様でワクワクしていたが、今では急で狭く昇り降りの大変な階段だと認識している。
スリッパをはいて隠し階段を上がるのは、慣れていないとかなり危険だ。
慣れていてる私でも、よく足を滑らせる。
私はスリッパを履いたまま、一段ずつ慎重に階段を登っていった。
隠し階段はL字型になっており、登りきったところには廊下が横に伸びて各部屋の入り口に面している。
二階の部屋は全部で三部屋あって
階段を上がって右側に一部屋、左側に二部屋、左側の一番奥は祖父のいた頃から物置部屋になっていた。
廊下に面した窓を開け、各部屋の襖も開け放していく。
周りを木で囲まれたこの家は、夏場はエアコンのかわりに涼やかな風が通り抜ける。
私は十代の頃、祖父の家によく遊びに来ていた。
子どもにとって、山の中にぽつんと建った祖父の家は隠れ家のようであり、秘密基地だった。
五月の初めには台所から見える竹藪にひょっこりと筍が頭を出し、夜は山の奥から不思議な鳴き声が聴こえてくる事もあった。
この家は私にとって宝物のような特別な場所だったのだ。
それが高校へ上がり、大学受験の頃になると忙しさを理由に足が遠のいた。
本当は、老いて入退院をくり返す祖父の死期を感じて目を背けたかったのかも知れない。
久しぶりの空気と懐かしさにひたっていると、どこからか猫の鳴き声がした。
『にぃ…にゃあ』
猫の声は廊下側の窓の下からだ。
「さっきの猫かな?」
覗き込むと竹藪の前に佇む、猫の碧い瞳がこちらを見た。
『にゃおん』
「何かな、わたしにご用?」
猫はふいっと顔を背けると竹林の中に消えていった。
(この辺りに住み着いている猫だろうか?)
猫の消えた方を眺めていたら、階下から母の声が響いた。
「二階が終わったんなら、さっさと降りてきて手伝ってよ」
また階段を慎重に降りる。
残りの部屋を確認するため母たちのいる部屋に向かうと、階段の突き当りに違和感を覚えた。
「こんな本棚あったかな…」
祖父が本を読んでいるところなど、今まで見たことがなかった。アクティブだった祖父は山へ登ったり、庭の手入れや木の剪定に忙しくしていた。
本棚は幅が狭いものの、天井近くまでブックカバーのついた本が隙間なくビッシリと並んでいる。
「これを片付けろとか言われたら、気が滅入るな」
独り言のつもりだった。
「くみ…あっ。その本棚邪魔だから片付けてって言おうと思ってたのよ」
「…今日は、無理じゃない?」
「片付けてくれたら、そこの本は全部売って良いわよ」
細々とバイトしているフリーターには魅力的すぎる言葉だ。
「あっ、紅実ちゃんお疲れ様〜。ちょっと休憩にしましょ」
大叔母が奥の部屋からひょいと顔を出す。大叔母と母はテキパキと働いて一段落したところだった。
和室のちゃぶ台に買ってきたペットボトルのお茶。その横には、竹籠に入ったおにぎりが並ぶ。
大叔母はのんびりとした口調で説明しながら、手早く昼食の支度を済ませた。
「こっちの三角は梅、丸いおにぎりは昆布、上に赤いのが載ってるのはタラコ。朝は時間がなくて、こんな物で悪いけど」
「わあ、美味しそう」
「ユキさんは相変わらずマメだわね。忙しいのに…お昼は紅実子に買いに行かせようと思ってたのよ」
「ここは買い物も少し不便だからね。まあ、ありものだけど良かったら食べて」
勧められるままにお茶を飲みつつ、タラコおにぎりを手にとった。一口囓るとタラコにしっかりと火が通って微かに醤油の香りがする。大叔母の料理は細かなところにも気配りがあり感心してしまう。
「紅実ちゃんは、今どこかにお勤めしているの?」
唐突な大叔母の質問に、おにぎりが喉につまりかけた。
「う…いえ、まだ仕事が決まっていないのでアルバイトと家の手伝いをしています」
毎日、母と二時間くらい電話をしているのに話していなかったのか。
「そう…もし紅実ちゃんが良ければね、お仕事としてこの家の修理をお願いしたいの。もちろん、紅実ちゃんがノコギリ持って修理をするわけではなくてね。鍵を預かって、職人さんにお茶を出したりお手伝いをできる範囲でしてもらえたら、って。伊音ちゃんには相談していたんだけど本人に聞いてほしいって言われて」
急な話にびっくりして母を見ると、母は黙ってお茶を飲んでいた。
「私、車の免許持っていなくて…」
「通うのが大変なら、住み込みでも良いのよ?」
いつになく強引な大叔母に寡黙な母、この展開がある程度ふたりの間で相談されて持ち掛けられたのだと悟った。
「もう少し考えさせてもらっても、良いですか?」
その後、夕方まで本を段ボールに片付けて帰宅。
埃だらけになった身体を清めるべく、お風呂場に直行した。
今日一日手伝うだけのつもりが、大事になってきたぞ…