アイスランドポピー第7話
雄太の会社での一日は契約の進捗状況を確認することからはじまる。広告代理店の仕事はいろいろな部門にまたがっている。そのうちのどれか一つの部門でも滞りが生じたならその一つの滞りが全体に影響する。進捗状況を常に把握しておくことは基本中の基本である。また、進捗状況を把握しておくことは取引先からの問い合わせにすぐに回答できることでもある。間髪を置かずに回答できることは取引先から信頼感を得る一番の方法である。その信頼感が新たな紹介を生む。
雄太がパソコンを見ているとスマホに電話が入った。社内の経理部からだった。
「お疲れさまです。ええ、はい…」
電話は雄太が契約をとった株式会社ウルトラインターナショナルについての幾つかの確認であった。数日前から相手側と連絡がとれないようなのだ。優太は直接自分で出向くことにした。
ウルトラインターナショナルが入居しているビルの前に車を停め、会社のロゴと企業名が書いてある2階と3階を見上げた。外観はいつもと変わらなかったが、少し違和感を覚えた。
優太はなんども来ているが、これまでとはなにかが違った。看板はきちんとかかっているし、1階の玄関口の表札もこれまでと変わりはなかった。しかし、これまでとはどこか違うのだ。なんと表現すればよいのか、空気感とでもいうようなものが違っていた。
雄太は足早に階段を駆け上がり、ドアに急いだ。勢いよくドアの前に立つとそこには優太を呆然とさせる貼り紙があった。
「長い間ありがとうございました。本日をもちまして業務は終了いたしました。」
優太は幾度も貼り紙を読み返した。信じられなかった。優太は先々週、スポーツジムで社長と会っているのだ。業務終了のことなど微塵も感じさせなかった。もう一度ゆっくりと時間をかけて読んでみた。それでも書いてある内容に変わりはなかった。あきらめきれない優太は曇りガラス越しに中のようすをうかがった。しかし、人がいる気配が感じられなかった。
人間の真の実力は苦境のときにあらわれるものだ。順境のときは誰でもうまく立ち回れる。大切なのは苦境のときにどのように振舞うかだ。ビジネス書にはそう書いてあった。優太は自分に言い聞かせた。
…落ち着け。落ち着け…。
優太はアナザーコーポレーションに向かうことにした。突発的なトラブルが発生したときに大切なことはその時点での正確な状況を確認することだ。アナザーコーポレーションはウルトラインターナショナルが紹介してくれた会社である。なにか情報を得られるかもしれない。優太は必死だった。
結局、無駄足だった。アナザーコーポレーションにも同じ内容の文章が貼りだされていただけだった。「途方に暮れる」という言葉があるが、今の雄太はその言葉が身に沁みていた。
優太はアナザーコーポレーションのビルを出たあとの記憶があまりない。気がついたときには商店街を歩いていた。何気に右のほうを見ると花屋さんがあった。店先には見覚えのある花が並んでいた。
雄太は課長に電話をした。
「課長、申し訳ありません。この前契約をとった2つの会社どちらも倒産したみたいです」
そういうのがやっとだった。課長の怒りに震える表情が目に浮かんだ。
「お前の責任だからな! とにかく社長に会って話を聞いてこい!」
雄太はスポーツジムに向かった。受付に行くといつもの受付の女性が笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます」
「今日、ウルトラの社長来てます?」
「いいえ、今日はいらっしゃってません。ここ数日お見えになっていないみたいですよ」
「そうですか。実は、今日はお願いがあって来たんですけど、こんどサプライズで社長にプレゼントを贈りたいんですけど社長の自宅の住所教えてもらえませんか?」
女性は微笑みながら
「そういうことでしたら…」
女性はそういうとうしろの事務所に入って行った。女性がいなくなった壁には花の写真がかかっていた。
…この花の由来、社長が教えてくれたんだよな…
少しして女性が出てきて住所を書いたメモを渡してくれた。
「大野様からの贈り物ならきっと社長もお喜びになりますよ」
雄太は笑顔を返したが、笑顔になっていたかは自信がなかった。
真由美は足早に302号室に向かっていた。西村さんが緊急コールを押していたからだ。真由美がドアを開けると西村さんが苦しそうに咳込んでいた。
「西村さん、大丈夫ですか?」
真由美が背中を擦り水を飲ませると少し落ち着いたようだ。か弱い声を出した。
「面倒をかけて…」
「いいえ、そんなことないですよ。呼ばれるために私たちはいるんですから」
「耐えるだけっていうのは辛いなぁ」
西村さんは独り言のようにつぶやいた。
雄太はウルトラの社長になんども電話をかけていた。しかし、全く返答がなかった。社長と連絡がとれなくなってから一週間が過ぎていた。一日おきに社長の自宅を訪れてもいたが、やはりインタフォンに返事はなかった。
その日もインタフォンに返事がなく、あきらめて通りを歩いていると車が渋滞していた。渋滞の先頭を見るとトラックの運転手と中年の男性がトラブルになっているようだった。優太がその場所に近づいて行くと、そこには優太がずっと探し求めていた男性がいた。
「社長!」
雄太は自然に大きめの声が出た。優太の声に運転手と中年男性は同時に雄太のほうを見た。運転手は優太を上から下まで見渡すと、ホッとしたかのように話しかけてきた。
「このオッサンの知り合い?」
「ええ、まあ」
「よかった。このオッサンどこか連れてってよ。通行の邪魔なんだよ」
オッサンは雄太を見ると、少し気恥しそうな表情は見せたがなにも言わずにうつむいた。
「わかりました。すみません」
雄太は社長の腕を両手で抱えると、歩道の端に誘った。オッサンは抵抗するでもなく力なく雄太に促されるがままに従った。
雄太は社長とファミレスで向かい合っていた。
「社長、どうしたんですか?」
社長は返事をしなかった。うつむいているばかりだった。その姿にはかつての自信満々の勇ましいさまはなかった。沈黙が続いたあと、雄太がまた尋ねた
「社長、なにがあったんですか?」
社長は絞り出すように小さな声を出した。
「すまん…」
「いえ、別に責めているんじゃないんですけど。あまりに突然だったもので…」
少し間をおいて社長はポツリとつぶやいた。
「中国から安い商品がどんどん入ってきて…」
途中までは聞き取れたが、後半部分はなにを言ってるのかわからなかった。優太が黙っていると社長が続けた。
「もうなにかも失くしたよ」
雄太は適当な返事の言葉が見つからず、ただコーヒーカップを見つめていた。優太のうしろの席から中年女性たちの賑やかな声が聞こえてきた。買物帰りらしい集団は余程楽しいことがあったようで盛り上がっていた。
優太の目の前には女性たちとは対照的な雰囲気の社長が座っていた。
「守りはむずかしいな…」
「社長、これからどうするんですか?」
「なにも決まってないんだ。債権者が厳しくてなぁ…」
「僕にできることがあったら言ってください」
社長はファミレスに来てから一度も雄太と目を合わせようとしなかった。しかし、このときだけチラッと雄太の顔を見た。
「ありがとな…」
雄太がトイレの個室に入っていると柴田と大塚が話しながら入ってきた。
「大野、大変らしいぜ」
「俺も聞いたよ。大きい契約とった会社が2つとも倒産したらしいな」
「ああ、もう課長なんでカンカンに怒りまくってて大野のせいで自分のサラリーマン人生も終りだってわめいてた」
「大野も天狗になってたしな。よかったんじゃない。でも、課長もひでぇよなぁ。部下の責任をとってこそ本当の上司じゃねかよなぁ」
「そうだよな。あんな上司の下じゃはたらけねぇよ」
「ホント、ホント…」
二人は笑いながら出て行った。
優太はひとり呟いた。
「…すっきりした」
つづく。