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アイスランドポピー  作者: marusato
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アイスランドポピー第5話


 看護師という仕事は常に緊張を強いられる。しかし、人間は緊張を継続できないようにできている。一流のスポーツ選手がそれを教えてくれている。どんなに優れた能力を持っている人でさえできないのだから普通の人ができるはずがない。ほとんどの看護師は普通の人だ。普通の人が緊張感を保つ方法は一つしかない。適度に緊張から解放されることだ。新人看護師の人の中にはそのバランスのとり方がわからずに辞めてしまう人がいる。そのような結末にならないために重要なのが先輩という存在だ。バランスのとり方を教えるのも先輩の重要な任務である。


 真由美がナースステーションで報告書を作成していると後輩の看護師が入って来た。そして椅子に座るなり話しかけてきた。

「302号室の西村さん、最近電気ないですよね」

 真由美はほかの人から声をかけられたときは必ず自分の手をとめ、相手のほうへ視線を向ける。後輩が話しかけてきたときは特に気をつけている。話すときの表情から後輩の心の状態を読み取るためだ。

「入院長いから…。みんなで元気づけてあげないとね」

「そうですよねぇ」

 後輩が返事をしたタイミングで事務長が入ってきた。事務長とは病院の経営面をみるのが仕事である。企業でいうなら役員だ。一般的に多くの人は病院に対してボランティア的なイメージを持っている。病人や身体が弱っている人を助けるのが仕事だからだが、そうしたイメージが病院を「利益」とか「儲ける」という発想とは無縁であるかのように思わせている。しかし、公営的な病院でない限り「利益」や「儲け」と無縁でいることは許されない。病院は単に運営されているのではなく、経営する機関である。経営する機関であるからには利益を上げることは至上命題である。事務長はその役割を果たすための役職である。

 事務長は50代半ばの神経質そうなやせぎすであった。あいさつの前置きもなく唐突に要件を切り出した。

「新人ナースに明後日休暇を許可したのは椎野さんですか?」

 言葉遣いは丁寧だが、話し方は十分に慇懃無礼だった。

「あ、はい。なんか疲れてるみたいだったので…」

「人手が足りないのに勝手に決められると困ります」

 真由美は不意をつかれた感じだったので言葉に詰まった。少し間をおいてからようやく返す言葉が見つかった。

「すみません。代わりに私が出ますから」

「そうですか。でも、勝手に決めないでください」

 要件を伝えると入ってきたときと同じようにあいさつの言葉もなく帰って行った。後輩は事務長がいなくなったことを確認すると小声で話した。

「やな感じ。事務長、人使い荒いですよね」

「まぁまぁ、仕方ないじゃない。それが事務長の仕事なんだから」




 雄太の帰宅時間はほぼ毎日深夜である。シンデレラの魔法が解ける時間とほぼ同時刻に駅に着いている。優太は改札口を出てからコンビニに寄り飲み物とお菓子を買うのをルーチンにしている。一日の最後をこの一連の行動で締めないと一日を終えた気分にならないのだ。ルーチンの大切さはイチロー選手から学んだ。スポーツとビジネスには共通点がある、と雄太は考えている。

 いつものように買い物を終えコンビニを出たところで真由美と出くわした。

「あら大野君、久しぶり」

「おう、元気でやってる?」

 優太は仕事が忙しく真由美が引っ越してきたことさえ忘れていた。顔を合わせたのは引っ越したばかりの頃に一緒に電車に乗ったとき以来である。優太の問いかけに真由美は明るく答えた。

「うん。大野君もエリートだからこんな時間まで大変ね」

「真由こそ、うら若き女性がこんな時間にご帰宅とはすごいね」

「私は仕事柄仕方ないわよね」

 雄太は真由美のさりげない話し方を好感した。自らの頑張りや努力をアピールすることなく、むしろ隠しているようなそぶりさえ感じさせるところがだ。

「真由は偉いね」

 真由美も雄太の素直な飾らない褒め方をうれしく思った。わざとらしく大げさに褒める人は信用できない。

「ありがと」

 ぶっきらぼうに聞こえる短いお礼の言葉は真由美の照れ隠しだ。真由美は話題をそらすように夜空を見上げた。

「東京の夜空って澄んでないよね」

 真由美の言葉に促されるように雄太も見上げた。そのとき優太はあることに気がついた。なんと雄太は東京に出て来てから夜空を見上げたことがなかったのだ。

「…忘れてた」

 優太の言葉が真由美の記憶を呼び起こしたのかもしれない。真由美は幼かった頃の二人を思い出した。

「こうして二人で歩くの何年ぶりだろ…」

 男と女の間柄を意識した言葉ではない。純粋に子供時代を思い出している言葉だった。

「二十年ぶりだよなぁ。俺、中学に入ったら意識しちゃってあんまり話さなくなったし…」

 真由美は微笑みながら雄太の顔をのぞき込んだ。

「そうなんだ…」

 優太は思わず本音を口にした自分に驚いたが、二人きりしかいない今の静寂な空間が優太に話を続けさせた。

「小さい頃はよく遊んだよな」

「遊んだっていうか、私はからかわれてたほうが多いと思うけど」

「そんなことないよ。真由はおてんばだったから」

 不思議なもので想い出話というのは話しはじめると尽きることがなかった。気づいたときには真由美のアパートの前に着いていた。

「わたしのお城に到着。今日は褒めてくれてありがと。おかげで元気がでた。じゃ、お休み」

「おお」

 真由美のうしろ姿を見送ったあと、雄太はひとり夜空を見上げた。


 …俺もお城に帰ろ。




 数日後、雄太は出勤時にまたあの親子を見かけた。もちろんうしろには渋滞の車が続いていた。母親は相変わらず無表情だった。母親の表情は変わらなかったが、雄太が感じる印象が違っていた。なんと言えばよいのか、母親から強い意志のようなものを感じるようになっていた。以前なら感じなかった感覚だ。それがなにを意味するのか、雄太にはわからなかったが単なる無表情ではないことだけは感じられるようになっていた。





 真由美が302号室に入って行くと、西村さんは物思いにふけっているように窓の外を眺めていた。

「午後の検診です」

 西村さんは返事をすることもなく真由美のほうに顔を向けた。

「なにを見ていたんですか?」

「遠い自分の過去ってとこかな…」

 西村さんは表情にも言葉にも覇気が感じられなかった。真由美は敢えて明るく話しかけた。

「きっと楽しい思い出がたくさんなんでしょうねぇ」

「そう思うかい?」

「もちろん!」

「残念ながら若い頃の自分は苦い思い出ばかりだよ。あの頃は前に突き進むことしか考えてなくてねぇ」

「前に進むのはいいことじゃないですか。それに前に進んだから成功したんじゃないですか?」

「でもな、前に進むってことは邪魔する人がいたらそれを力尽くで押しのけるってことでな」

「でも、そうしないと前に進めないですよね」

「そうだけど、押しのけられる人のことももう少し考えてあげればよかったかなって入院してから思うようになったんだ」

「優しくなったんですね」

「そうかもしれんな。昔は攻めることしか考えてなかったよ。でもな病人になって初めてわかったんだ。攻めることができない人もいるんだよな」

「そうかもしれませんね」

「若い頃はそんなこと考えもしなくて…」

 西村さんはまた窓の外に目をやった。



つづく。

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