アイスランドポピー第4話
真由美が勤めている病院は中規模の総合病院である。外来だけではなく入院患者も受け入れている。真由美は入院病棟の3階で働いていた。看護師の一日は朝のカンファレンスから始まる。どこの病院でも同じだが、入院病棟は24時間体制の勤務形態が普通である。そうなると自ずと、朝のミーティングは夜勤の看護師からの引継ぎを行うことが主要な業務となる。各患者の容態を確認することから看護師の仕事ははじまる。
看護師の仕事は命がけだ。人の生死に関わる仕事である。ほんの些細なミスが大きな過ちにつながることもある。オンとオフの切り替えをきっちりと意識することは基本中の基本だ。そしてコミュニケーション力だ。もちろん看護学校で厳しく叩き込まれる。一般の人の中には看護師という職業に就く人は全員が外交的で明るくほがらかな性格の人と思っている人がいる。入院患者などは一日中看護師を見ているから特にその傾向が強い。しかし、看護師といえども普通の人間である。落ち込むときもあれば気分が乗らないときもある。けれど、そんなときでも患者さんの前では明るく振舞う。こうしたことも看護学校で学ぶ。
しかし、根本的には生まれつき陽性の精神を持っている人が看護師になるものだ。だいたいにおいて「他人に尽くしたい」という気持ちを持っている人が看護師になっているのが現実だ。持って生まれた性格が看護師に向いている人が就く職業である。そうでなければ普通の職業に比べるなら格段に過酷で厳しい職場状況に耐えられるはずがない。ある意味、看護師に就いている人は天職に出会った人ということになる。誰でもそうだが天職に出会えた人はそれだけで幸せ者だ。
真由美は幸せ者の一人だった。
真由美はいつものように302号室のドアを開けると明るく声をかけた。
「西村さん、おはようございます。おかげんはいかがですか?」
名前を呼ぶのも看護の一つだ。患者さんからすると直接自分の名前を呼ばれることで親近感を持つことができるし、看護師自身にとっても仕事のメリハリにつながる。学校の教師が同じ授業を各クラスで繰り返すのと同じように、看護師も究極的に言うならどの患者にも同じ医療行為ことをする。どうしてもマンネリに陥りやすい状況になってしまうのだ。どの業界にも共通することだが、マンネリは事故の温床である。
「いつもと変わらなかな」
西村さんは穏やかな声で答えた。西村さんは70代後半の割には髪の毛が残っている、いわゆる好々爺然とした品のある患者だった。患者にもいろいろなタイプがいるが、西村さんは看護師の立場を気遣うことができる人格者だった。
真由美は笑顔で答えた。
「じゃぁ、今日も元気ということですね。うん、それはいいことです」
「その君の笑顔を見ていると、ますます元気づけられるよ」
真由美は医療行為をするときは必ず声をかけていた。
「はい、検温お願いします」
西村さんは体温計を受け取りながら質問した。
「隣の病室、誰もいないけどいつ入るの?」
「まだ私も聞いてないんですけど二、三日中には入ると思いますよ」
「…なんか…俺ばっかり長生きするよなぁ」
独り言というかつぶやきというか細い言葉が返ってきた。真由美は西村さんを元気づけるように明るい声をかけた。
「西村さん、長生きすると私の笑顔たくさん見られますよ」
「ハハハハハ、そうだよねぇ」
真由美の看護師としての一番の魅力は機転の利いた言葉のやり取りだった。
雄太は株式会社ウルトラインターナショナルの応接室にいた。優太が狙っている会社である。向かいにはいかにもやり手の経営者といった雰囲気を醸し出していた社長が座っていた。
「いろいろ検討した結果、大野君の提案が一番よかったよ」
「本当ですか。ありがとうございます」
「それに俺に近づくためにジムに通ったっていうのも気に入った理由なんだよ」
「あ、それは言わないでください」
「ハハハ…、気にしなくていいんだよ。俺はそういう根性のあるやつが好きなんだから」
「攻撃は最大の防御なんですよね」
社長は豪快な声で笑った。
「そういえば、ジムの受付に大きな写真があるだろ。あれ、なんの花か知ってる?」
雄太が考える間もなく社長が答えを言った。
「アイスランドポピー。花言葉は忍耐だ。結局、トレーニングって楽じゃないだろ。つまるところは忍耐しかないから。あのチェーンの創業者のポリシーらしいよ」
社長の顔は自慢げだった。話し終わると少しだけ表情を引き締めて、そして声のトーンも低くして話し始めた。
「それはそうと一つ問題があってね。支払いのことなんだけど…、実はウチの会社は今、注文に生産が追い付かない状態で、、、それで資金をできるだけ工場建設のほうに回したいんだ。そこでだ、、、。支払いを工場完成後にしてもらえないかな? それさえクリアできたらすぐに大野君と契約するから」
「わかりました。早速上司に相談してみます」
「是非頼むよ。大野君の提案が一番いいからできるだけ君に頼みたいんだ」
「期待に添えるようがんばります!」
雄太は会社に戻るとすぐに課長に報告した。
「課長、なんとかこの案件、上のほうの了解取れないでしょうか?」
「うーん、ちょっと厳しいなぁ…。支払いの猶予は簡単じゃないんだよ。やっぱり会社にとっては大きなリスクだしなぁ」
「課長、この社長の人柄は僕が保証します。騙すような人ではありませんし、なんと言っても業績の伸びがすごいんですよ。青田刈りではないですけど、早いうちに関係を築いておいたほうが将来的には有利なんです。なんとかお願いします」
なんども書くが、有能なビジネスマンは社外という取引先だけではなく、社内でどれだけ自分の仕事を通せるかが勝負の分かれ目だ。押すときは押す! 強気で押す! これが肝である。
「そうか。大野君がそこまで言うなら…。ただちょっと時間をくれないか?」
「はい。よろしくお願いします」
雄太は社内のトイレの個室に入っていた。そのとき柴田と大塚が話しながら入ってきた。
「おい、知ってるか? 大野またデカイ契約とりそうなんだぜ」
柴田の声に大塚が答えた。
「ああ、知ってる。課長も大喜びしてるみたいだし…」
「でもあの課長、部下の功績を自分の功績にするので有名なんだ」
「へぇ、よくおまえそんなこと知ってるな」
柴田はまんざらでもないふうにさらに自慢げに続けた。
「大野、専務の娘とつきあってんだぜ」
「おまえ、ホントに社内情報に詳しいなぁ。今度から文春砲って呼んでいい?」
「ハハハ、でもなサラリーマンとして生きていくにはそのくらい知ってないとな」
「じゃぁ、俺のことなんか知ってる?」
「いや、雑魚のことは知らなくていいんだ」
二人は笑いながら出て行った。優太は以前読んだ自己啓発の本に書いてあった言葉を思い出していた。
有能なビジネスマンは孤高を恐れてはいけない。
つづく。