アイスランドポピー第2話
会社という組織では同僚という存在は仲間でもありライバルでもある。入社して4年も経っていると自然に出世競争の中で自分の位置というものが少しずつわかってくる。優太の成績は常にトップをとっていたのでいわゆる出世頭と周りから思われていた。優太はそんな状況をまんざらでもないと思っていた。
課長とのやり取りのあと席に戻ると同期の柴田と大塚が近寄ってきた。
「大野、おまえまたいい会社見つけたんだって…」
柴田のからかい半分の言葉に大塚が言葉を続けた。
「また契約とるんだろうなぁ」
優太には大塚の言葉には羨望と嫉妬の両方が含まれているように感じられた。柴田もやはり優太が常に成績が上位にいるのが不思議でならなかった。
「なんか秘訣みたいのあんの?」
「秘訣なんかないよ。ただ食らいついたら相手が落ちるまでねばるんだ」
二人はうなづくしかなかった。
雄太には恋人がいる。社内のあるパーティで知り合ったのだが、きっかけは女性のほうから声をかけてきたことだった。優太は社内では名前を知られた存在だった。小学校では足が速い男子かもしくは面白い男子が人気者になるように、会社内では成績が優秀な社員が注目される。しかも雄太の外見はそれなりにイケているほうである。身長だって平均以上はあった。女子社員が興味を持つ要素を十分に備えていることになる。彼女ができないはずがなかった。
デートはいつも彼女の方が主導権を握っていた。声をかけてきたのが彼女のほうからということでもわかるように、積極性に満ちた女性だった。
優太はいつもの店で待っていた。優太にとって「いつもの店」になったのは美江子とデートをするようになってからだ。紹介が遅れたが美江子は雄太の彼女の名前だ。
基本的にデートは雄太が待っているのが常だった。そこに美江子が現れてデートははじまる。お店のマスターも心得ているので美江子が来るまでオーダーを取りに来なかった。元々はこの店は美江子にとっての「いつもの店」だった。家族で食事をするときや父親と二人で食事をするときに使っていたレストランだった。
いつものように6~7分遅れて登場した美江子が席に着くとマスターが上品な笑顔をたたえてやってきた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。いつものお願いね」
それだけで通じた。
「先日、お父様が取引先の方とお見えになりましたよ」
マスターの言葉に少し大げさに驚いた素振りを見せて笑顔で答えた。答えながら美江子はテーブルの端においてある小さなモニターに気がついた。
「あら、これなぁに?」
「新しい『クモの糸』という占いゲームなんですよ。ちょっとした知り合いからお願いされまして置くことにしました。よろしかったら一度占ってみてください。運がよければ天国に行けますから」
美江子とマスターの会話は常連という言葉に相応しいやり取りだった。優太はマスターの接客術にいつも感じ入っていた。押しつけがましくない笑顔と受け答えの絶妙のタイミングとその話し口は勉強になった。これこそ熟練の業がなせるものだと感じていた。
美江子の服装は相変わらずファッション誌から抜け出たような着こなしだった。おそらく一人で歩いているときに男性の目を引く場面を幾度も経験しているはずだ。優太は美江子が自分と歩いているときにほかの男性の視線を意識しているのがわかることがある。これはきれいな女性特有の本能と言ってもいいかもしれない。美江子は女性の本能が強い性格の持ち主だった。
「大野君、また大きな契約狙ってるそうね」
「へぇ、どうしてそんなこと知ってるの?」
美江子は肩まである長い髪をかき上げながら答えた。
「お父様から聞いたわ」
「僕のことはなんでもお見通しなんだなぁ」
「そうよ。あなたは私の手のひらで飛び回っている孫悟空なの」
「じゃぁ、君は本当は三蔵法師なんだ…」
美江子は優越感に浸っているような笑みを浮かべた。
「三蔵法師にしては色気がありすぎるよな」
「あら、それ褒めてるのよねぇ」
「もちろん。それに僕は孫悟空だから狼にも化けられるし…」
「今の言葉、お父さまに言いつけちゃおう」
ある日、優太が出勤時に駅まで歩いていると車が渋滞していた。駅までの道は片側一車線で車道と歩道が区別されていない道路である。普段、優太が出勤する時間帯はラッシュアワーのピークを1時間ほど過ぎた時間なので人通りも車の量もそれほど多くはなかった。これまでに渋滞の光景に出会ったことは一度もない。実に、珍しい光景である。
雄太が渋滞している車を追い抜きながら運転席を見ると、どのドライバーも苛立ちの表情を浮かべていた。本来、この道は抜け道になっている道路である。抜け道とは渋滞を避けるために走る道路である。それなのに渋滞に巻き込まれるのでは苛立つ気持ちもわからないではない。今にもクラクションを鳴らしそうなドライバーまでいた。
そんなドライバーたちを横目に見ながら渋滞の先頭に差し掛かると、そこには四十代後半と思しき女性が車椅子を押している姿があった。格好はお世辞にもきれいとはいえないもので上がトレーナーで下がジャージ、その上に割ぽう着のような上っ張りを着ていた。優太が気になったのはその歩き方である。普通の神経の持ち主ならうしろに車が続いていたなら少しくらいは焦っている雰囲気があるものだ。しかし、その女性はうしろの車の渋滞など気にしているふうでもなく黙々と、そして淡々と歩いていた。
車椅子の上には風船が浮かんでいた。これもまた不思議な光景である。このような光景を見るとやはり車椅子に座っている人が気になるものだ。優太は追い抜きざまにそれとなく中を見やった。椅子には7才~8才くらいの男の子が、笑っているのか怒っているのか判別がつかない表情を浮かべて座っていた。そして、右手には風船の紐が握られていた。
普通に考えるならこの二人は親子である。しかし、雄太はそんな詮索などしている余裕はなかった。急いで駅に向かった。
雄太はその日一日、あのお母さんの表情が忘れられなかった。車椅子の中を見やったあとお母さんの顔にも目を向けたのだが、そのときのお母さんの表情が心に刻み込まれてしまったのである。
お母さんは無表情だったのだ。微笑んでいるのでもなく怒っているのでもなく、またなにかを考えているのでもなく、ただ前の一点を見つめて歩いていたのである。渋滞を引き起こしているうしろめたさとか申し訳なさといった気持ちもなさそうであった。その表情からは日々の暮らしをごくごく普通に過ごしている生活感が感じられた。
第2話おわり。
つづく。