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さみしい遊園地

作者: 針間有年


『本日は東出遊園地にご来場いただきありがとうございます。ご来場の皆様にご案内申し上げます。東出遊園地は午後七時までとなっております。お帰りの際は―――』


閉園の音楽が流れ始める。


出口のゲートに向かう人々。笑いあう学生。手を繋ぐ恋人たち。

母親に手を引かれる少女。疲れ切って父の背で眠る子ども。

潮が引くように、道行く人の声が遠くなっていく。


「やっぱり嫌いだわ」


彼女が、呟く。


「あなたはどう?」


彼女は僕の方を振り返る。

休日を楽しんだ人たちの幸せな情景。


「僕は好きです」

「そう。でも、私は嫌いだわ」


立ち上がり、彼女は小さく伸びをする。

長いスカートが風になびく。


「とても懐かしいもの。あの頃は、大好きだったのにね」


夕日を見つめる彼女がどんな表情をしているのか、僕にはわからない。


***


「青木さん。交代です」

「おお、もうそんな時間か」


青木さんはいつものように快活に笑う。

都心から離れた小さな駅。

その駅から徒歩十数分。東出遊園地は、そこにある。

東出遊園地の中にある古い小さなメリーゴーラウンド。

これを運行させるのが僕の仕事だ。


青木さんと交代する。

錆びた柵に手をかけ、従業員スペースに入る。

従業員スペースと言っても、メリーゴーラウンドの横に小さく設けられたただの四角い空間で、メリーゴーラウンドを動かすための小さな機材があるだけ。

青い小さな屋根は雨風をしのいではくれるが、六月だというのに、早くも始まったうだるような暑さは塞いではくれない。


準備は整い、すぐにでもメリーゴーラウンドは動かせる。

だけど肝心の客は一人もいない。

東出遊園地は、従業員の僕が言うのもなんだがさびれた遊園地だ。


「例の犯人、まだ捕まってないな」


青木さんが口にしたのは、一週間前、この地域で起きた殺人事件のことだ。

この平和すぎる片田舎の町で起きた殺人事件。

一週間経つが犯人は捕まっていない。従業員の間でもこの話が持ちきりだ。

青木さんが小さくあたりを見渡す。

何かを確認するとそっと小声で、


「俺はな、あの女が怪しいと思うんだ」


そう言った。


「まさか」

「あの女が現れ始めたのはちょうど事件のあった日だ。そうだろ?」


一週間前。確かに彼女はその日から現れた。


「でも、そんな」

「とかだったら面白いよな」


青木さんは冗談めかして笑う。

僕は少しホッとして、表情を緩める。


「そんなドラマじゃないんですから」

「だって面白そうだろ?さびれた遊園地に逃げ込んだ殺人犯。映画とかにありそうだな」


言うだけ言うと、青木さんは休憩に従業員室に帰った。


僕は、ポケットに入ったハンカチを取り出す。

小さな花の刺繍が入った上品な薄い水色のハンカチ。

そっと、裏を返すと赤黒いしみがついている。

僕は、そっとそれをポケットにしまう。


午後四時三〇分。閉園三〇分前。

「こんにちは」

彼女は今日も、現れた。


***


彼女はいつも一人で現れる。

初めて来た日もそうだった。


一週間前。


六月が始まった。

雨の日が多いこの時期は、来場者も減る。

人々は、昨日起こった殺人事件の話をしていた。


僕の担当するメリーゴーラウンドは、遊園地の端に位置する。

他の遊具からは少し離れたところにあるせいか、客足は遠い。

その日も、一時間に片手で数えられるほどしか運行しなかった。


西日が差してくる嫌な時間が来た。

沈む太陽が容赦なくこちらを照らしてくる。

制服にじっとりと汗がにじむのがわかる。


その時、彼女はやってきた。


黒い長い髪に西日が当たってキラキラと輝いていた。

光る髪とは裏腹に彼女は、ひどく沈んだ顔をしていた。

ここにいると、時折こういう人を見かける。

綺麗な服を着て、ひどく疲れた顔をした女性。

この遊園地は恋人と来ると別れる、という不名誉なジンクスがある。


彼女はメリーゴーラウンドの前のベンチに座った。

彼女の背を見ながら僕は考えをめぐらす。

子連れではないだろう。母親というにはまだ若い。

やはり、恋人と来たのだろうか。

喧嘩して疲れたからはずれのベンチで休んでいる。

彼が迎えに来るのを待っている。

いや、もしかすると恋人と別れ話をすませて疲れ切っているのかもしれない。

僕は憶測を巡らせる。


誰も来ないメリーゴーラウンド。

彼女は何も話さない。

僕も何も話さない。

ジェットコースターの木製の枠がきしむ音がする。

止まったと思えば、まばらな悲鳴とともに機体がレールを下る音がする。


彼女は、前をじっと見つめている。

あまりにもまじまじと見ているものだから、僕は興味を惹かれ、彼女の視線の先を追う。

だが、視線の先にあるのは、ケヤキの木の向こうに見える何の変哲もない町並み。

夕日を受けて、近くの集合団地が逆光で黒い塊となっている。


『本日は東出遊園地にご来場いただきありがとうございます。ご来場の皆様にご案内申し上げます。東出遊園地は午後七時までとなっております。お帰りの際は―――』


閉園の音楽が流れ始める。


彼女は立ち上がった。

ふと見えた横顔に思わず声をかける。


「大丈夫ですか?」


彼女は一瞬、驚いたような顔を見せ、


「ええ、大丈夫よ。ありがとう」


そう言って微笑んだ。

彼女は、他の来場者と同じようにゲートへ向かう。


その時、どこか遠くからサイレンが聞こえた。

パトカーのサイレンだ。

彼女がびくりと体を震わせたのを、僕は確かに見た。


閉園後、後片付けをしていると、ベンチにハンカチが置いてあることに気づく。

おそらく、あの女性の忘れ物だろう。

手に取って息を呑む。

そこには、赤黒いしみが付いていた。


この平和すぎる町で起こった殺人事件。犯人はまだ捕まっていない。


***


今日も彼女はやってきた。


「お疲れ様」


僕は会釈を返す。

何度も訪れる彼女と言葉の数は少なくとも会話を交わすようになっていた。


「昨日はいなかったね」

「はい。シフトの関係で」

「バイト?」

「いえ、社員です」

「へぇ、学生さんかと思ってた」


彼女は小さく笑う。

ずいぶん若く見られていたらしい。

僕はなんとなく気恥ずかしくて「はぁ」と気の抜けた返事を返す。


二言三言、言葉を交わす。

そして、会話が途切れる。

だからと言って気まずいわけではない。むしろ、この瞬間が心地よい。


アトラクションの機械音。

人々の声。

止むことのない音の中にいる。

だが、この瞬間だけは、音がふっと遠くに聞こえる。


ベンチの背に体をあずけたまま、彼女は遊園地のにぎやかな方を眺める。

いつもは前ばかりを見つめている彼女。だから後ろ姿しか見えない。

僕は、その珍しい横顔を眺める。


「ここって不思議なところ」


彼女が呟く。


「不思議、ですか」

「ええ、不思議」


そもそもね、と彼女は続ける。


「遊園地なんてなくても生きていけるじゃない」


食料を買う店でもない。衣服をそろえるためのものでもない。

これがなくたって生活できる。


「それだったら、映画館もカラオケボックスも不思議ですね」


僕の言葉に彼女は笑う。


「そうだね。でも、これだけの広い土地に、これだけの設備。ちょっと異常じゃない?」


彼女があたりを見渡す。


「ジェットコースターに観覧車、それにこんな可愛らしいメリーゴーラウンド」


歌うように言葉を重ねた彼女の声がふと、やむ。彼女がふと、前を見やる。


「なのに、さびれた団地も目に入る。なんだか、やるせないね」


 僕は、何を返したらいいかわからない。また、静かな時間が流れる。


「ねえ」


彼女は前を見たまま振り向かず、


「最近、何か変わったこと、あった?」


僕に尋ねた。彼女の背を見ながら、僕は答える。


「パトカーの音が聞こえます。取材の人も見かけます」

「…ああ、そっか。殺人事件があったんだってね」


そう答えた彼女の表情は僕からは見えない。


「亡くなったのは、一人暮らしのおばあさんだっけ」

「そうらしいですね」


少しの沈黙の後、彼女がぽつりとつぶやく。


「悔しかっただろうね」


僕は何も答えない。

そのうち、閉園のアナウンスが流れ始める。彼女が立ち上がる。僕の方を振り返り、


「またね」


そう言って立ち去った。


僕はポケットに手を当てる。まだ、彼女にハンカチを返せてはいない。


***


「熱くなってきたね」


夏至が過ぎた。日が沈むのがずいぶんと早くなった気がする。

彼女の装いも夏らしくなってきた。

彼女はいつものベンチに静かに腰を下ろした。


「気味が悪いと、そう思わない?」

「何がですか?」


彼女が何を言いたいか、僕は分かっている。

彼女は苦笑する。


「何がって、毎日毎日同じ女が一人で遊園地に来ること」


従業員の間で、彼女のことは少なからず噂になっていた。

毎日毎日、飽きもせず同じ場所にやってくる彼女。

何をするわけでもない。誰かと来るわけでもない。

変わった者を人は面白がり、そして噂にする。あまりよくない噂だ。

人の噂などどうでもいい。だけど、


「そう思う人もいる、というだけのことです」


僕はそう答える。

血の付いた彼女のハンカチのことを僕は誰にも話していない。

彼女は、少し黙った後、


「やさしいのね」


そう笑って前を向いた。


「それにしても、人がいないね」


閑散としたメリーゴーラウンド前。

認めるのは少し悲しいが事実なので仕方がない。

それでも言い訳のように、


「もうこの時間ですから」


なんて言葉を口にする。彼女は少し微笑む。


「昔はね、この時間でもたくさんの人がいたわ」

「昔、ですか」

「私がこの近くに住んでた頃はね」


彼女はそう言って、遊園地の途切れたところに見える団地を指さす。


「あの団地のちょうどあのあたりに住んでいたの」

「近いですね」

「ええ。ここにはよく来ていたわ。母と二人で」


逆光で見えない団地のその建物の方を彼女は見つめた。


「とても大切な思い出」


彼女はそう呟いた。僕は、少し微笑む。

その時、パトカーのサイレンの音が響いた。彼女の肩がびくりと震えた。


「でも、その思い出がこんなにも自分を苦しめるなんて」


パトカーの音に紛れて、そんな声が聞こえた気がした。

僕は口をつぐんだ。

パトカーの音が遠ざかっていく。

閉園のアナウンスが流れ始める。


「じゃあ、またね」


彼女は振り返らずに去っていった。


***


厚い雲のかかった空の下、僕は今日もメリーゴーラウンドを動かす。


一組の親子がやってくる。小さな子供とその母親。

夕暮れ時、人は少なくどの席だって選び放題だ。

少女は喜んで、白馬を指さす。

安全バーの装着を促すアナウンスをし、設備を動かす。


少女の楽しそうな声に、それに応える母親。

視界の端に、彼女の姿が映る。

回る親子を見る彼女の表情は今にも泣きだしそうだった。


「ありがとうございました。忘れ物にお気を付けください」


僕はマニュアル通りの言葉で、その親子を送り出す。

後には彼女以外、誰もいなくなった。


いつものようにベンチに座っている彼女は、去っていく親子の背中を眺めている。


「…大好きだったんだよ」


彼女は呟いた。


「大好きだったんだ。この場所も。母も」


その声は震えている。


「大好きだったのにな」


屋根に雨粒の当たる音がする。

小さな水滴の音が一粒、二粒、たちまちのうちに増えていく。


「どうして、こうなっちゃったのかな」


雨脚が強くなる。

ざぁ、っと音がするくらいの雨。


僕は、錆びた柵を抜け、雨の元へ出る。

すでに濡れた彼女を屋根のある方へ勧める。

彼女は何も言わず、メリーゴーラウンドの横に付く小屋の小さな屋根の下に入った。


いつもベンチに座る背中ばかり見ているせいか、ほとんど毎日会っているのに見慣れない人に見える。

肩は震えていて、今にも崩れてしまうのではないかと不安になる。

それほど彼女は儚げだ。


「きっと、にわか雨です」


僕はそう口にした。

彼女は少し顔を上げ、そして微笑んだ。

彼女の微笑みを正面から見たのは初めてだった。


そして僕は気づく。


「だから、止むまではここに」

「ありがとう」


彼女はそういって笑った。

僕と彼女はしばらく何も言わずに降り続く雨を眺めていた。

雨を眺める彼女。

その右手の薬指には指輪が付いていた。


それでも、彼女と雨を眺める時間。

それは、とても心地よい静かな時間だった。


静かな時間は、着信音でかき消される。

彼女は電話を取った。

彼女は沈黙し、遊園地の遠くの方を見た。

彼女の住んでいた団地の方をじっと。

電話が終わると、彼女は立ち尽くしていた。

そして、何かが切れたように泣き出した。

僕は、その肩を支えようと手を伸ばし、そして止める。

管制室から、タオルを持ち出し彼女に差し出す。

言葉をかけることもしなかった。


涙を流す彼女に、僕は触れることはなかった。


***


しばらく、雨が続いた。あの日以来、彼女の姿を見ていない。


今日は休日。

今日も雨だ。


僕は一人、雨の音で目が覚める。

外は薄暗い。


手元のスマホを見ると、午前四時半。

もう一度寝直そうかと思ったが、どうもそんな気になれず、僕は布団の中でスマホを触る。


ネットを開き、トップニュースを軽く閲覧する。

画面を流していくと、地域のニュースの欄にたどり着く。

ここ最近僕はこの欄を熱心に目にしている。


待っていたニュースがやってきたらしい。


『東出地区、強盗殺人、犯人捕まる』


僕は息を呑む。

軽くタップして画面を開く。

読み込み時間はとても短い。

なのにその一瞬が妙に長く感じる。


開いた画面の小さな文字をたどる。


金目のものを狙った強盗殺人事件。犯人は、男だった。


腕で顔を覆い、長く息を吐きだす。

そんなはずはないと分かっていた。

はじめから、分かっていたはずだった。


彼女の姿が目に浮かぶ。

作業服に入ったままのハンカチ。

洗って返そう。


僕は、暗くなったスマホの画面をタップし、今一度、事件の記事を読み返し、もう一度安堵のため息をついた。

最後の文を読んだとき、画面の下に表示されていた関連記事が目につく。


『東出市公共住宅で六〇歳 孤独死か』


六〇歳女性。

頭から血を流しているのが見つかった。

死亡鑑定の結果、転倒し頭を強打したようだ。

亡くなった女性は認知症を患っていた。


メリーゴーラウンドの正面。

遠くに見える、公共住宅。

彼女はいつも、それを見ていた。


かつて、住んでいた場所だと。

かつて、愛した場所だと。

かつて、愛した母とともに暮らした場所だと。


亡くなった六〇歳の女性は、死後ひと月は経過していたという。


僕は、立ち上がり、作業着のポケットから、ハンカチを取り出す。

洗剤をつけ、丁寧に洗う。

やわらかい生地が傷んでしまいそうで、やさしく手洗いする。

だが、こびりついた血はとれない。 


透明な水が、排水溝に流れていく。

ハンカチには洗ってもとれないしみが残っていた。


***


次の日は、どしゃぶりの雨だった。

人はまばらだった。僕は、適当な用事を作り、彼女の来る時間に合うようにシフトをずらす。

黒い傘、黒い服で彼女はやってきた。胸元には真珠のネックレスがついている。


「こんにちは」


その時、初めて僕から声を書けたかもしれない。

彼女は疲れ切った微笑みを浮かべた。


いつものベンチの前に彼女は立つ。僕と向かい合う。

雨のメリーゴーラウンドに人はいない。


いつもより、丁寧な装い。後ろで結ばれた黒い髪。

その髪が少しだけ零れ、彼女の頬に張り付いている・


「あそこに母が住んでいたの」


彼女はそういった。


「亡くなったわ」


僕はどんな言葉を返したらいいかわからなかった。

安っぽい慰めすら出なかった。

母の死を口に出した彼女の表情は、あまりにも柔らかかったから。


「もう、ここには来ない」


凛とした声で彼女は言った。

いつものどこか現実離れした言葉ではなく地に足の着いた言葉。

彼女が遠く離れていくように感じた。

彼女は僕の目を見る。


「ありがとう」


僕は首を横に振る。

何もしていない。何もしなかった。

したことといえばこれだけだろう。


僕はポケットから、ハンカチを取り出す。

彼女が息を呑むのがわかる。


「これ、落としてましたよ」


僕は彼女にハンカチを差し出す。

僕に礼を言い、受け取ろうとする彼女の手は震えている。

彼女はハンカチを手に取り、目を見張る。


「洗ってくれたのね」

「はい」

「こんなに綺麗に落ちるものなのね」


彼女は泣きそうな顔で笑った。

今までの表情は彼女が必死に取り繕っていたものだと気づいた。

僕は言った。


「あなたは悪くない」


彼女は僕をじっと見る。

僕も彼女を見つめる。

メリーゴーラウンドの屋根に雨が落ちる音が大きく聞こえる。


傘を差し、それでも吹き込む雨に濡れる彼女。

黒い瞳。

震える小さな手。

光る薬指の指輪。


僕はこの一瞬のことを、今後の人生で何度も思い出す。

今までに出会った中で一番美しい情景だった。


『本日は東出遊園地にご来場いただきありがとうございます。ご来場の皆様にご案内申し上げます。東出遊園地は午後七時までとなっております。お帰りの際は―――』


閉園の音楽が流れ始める。


時が動き始める。


「ありがとう」


彼女はもう一度、そう言った。

凛とした笑顔ではない、はにかむような笑顔。

僕は手を伸ばしそうになるのを強く抑えた。

彼女にも分かってしまったのだろうか。


「さようなら」


彼女はそういって微笑んだ。


「さようなら」


僕は、当たり前の言葉を返した。


背を向けてこの場所から出ていく彼女。

彼女の後姿に、いつものような寂しさはない。

彼女は、解放された。

ここから。彼女を縛っていたものから。

彼女はこの場所を去っていった。


***


あれから何年もたった。

僕は相変わらずメリーゴーラウンドの前に立ち、人々の姿を見守る。

日常から離れた、娯楽のためだけに作られた、この不思議な世界で、僕は働く。


『本日は東出遊園地にご来場いただきありがとうございます。ご来場の皆様にご案内申し上げます。東出遊園地は午後七時までとなっております。お帰りの際は―――』


閉園の音楽が流れ始める。


時が経とうと、変わらない光景。

親に手を引かれる子供。その背で眠る子供。恋人たちに、友人同士。


だが、人の姿はまばらだ。

今日は夕方から雨。

しとしとと降り始めた。

メリーゴーラウンドのテントに、雨粒が伝い、水たまりに落ちる。


こんな日は、思い出す。


彼女と、そして、あの美しい情景を。

 

一つだけ、僕は彼女に嘘をついた。

あのハンカチ。血の跡は、どれだけ洗っても落ちなかった。

別のものを用意し、彼女に渡した。

それで、よかったのだろうか。

確かめるすべは何処にもない。


にわか雨が止み、夕日が空を赤く染める。

 

「おかあさん、しまっちゃうよ」


赤い水玉のワンピースを着た少女がメリーゴーラウンドの前を横切る。

その後ろから、母親が追いかけてくる。

彼女が嫌いだった幸せの情景。


子どもの手を取り、顔を上げた母親。

僕は息を呑む。

彼女と目が合う。


彼女は、僕をその目に映し微笑んだ。


閉園の音楽が流れている。

人の声が遠くなっていく。


「好きです」


僕は言った。


「この情景が」


いつか彼女とした会話。

今度は僕が尋ねる。


「あなたはどうですか」

「私も好きだわ」


そう答え、彼女は笑った。

僕は、彼女と彼女に手を引かれ笑う子供を見送る。


小さく胸が痛んだ。

それでも、僕は、好きでした。


だから、何度でも、思い出すだろう。

また今日の日のことを。



終わり

閲覧いただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ∀・;)な、なんだ!?この震えあがるような群像劇は!?ボクは衝撃を受けましたよ!!登場する人間だけでなく情景までにも素敵なスポットライトがあたっている。なんという素敵な作品。 [気になる点…
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