6.なにか怖いんですか?
いつの間にか、いもたきの席からシロがいなくなっていた。
そのことに気づいて、九十九は一寸迷う。
なんとなく、「探さなきゃ」と頭の端に浮かんだのだ。
理由は特にない。
シロは基本的に気まぐれで、唐突に現れては、好きなときに消える。フラリとつかみどころがなく、すぐにどこかへ行ってしまう。でも、だからこそ、いつもは「またすぐに現れる」と思える安心感もあった。
「シロ様」
九十九は確認するように、シロの名前を口にした。
たいていは勝手に現れるが、シロは九十九の呼びかけには応えてくれる。
けれども、数秒待っても、シロは姿を現さなかった。
「九十九ちゃん、どうしたの?」
様子のおかしい九十九を心配して、小夜子が顔を覗いた。
「ううん……気のせいだと思うんだけど……」
どうせ、いもたきを持ち帰り、どこかの部屋でお酒でも飲んでいるのだ。そう思って、九十九は首を横にふった。
だが、そんな九十九に小夜子も首をふる。
「いいよ、行ってきて。ここは、みんなでなんとなるから」
小夜子は笑った。
九十九はなにも言っていないのに。
「え?」
「ほら」
二の句を継がせず、小夜子は九十九の肩を叩いた。ポンッと触れた手が温かくて、九十九は思わず唇が緩んでしまう。
「わかった。すぐに戻るね」
「シロ様といい雰囲気になったら、そのまま帰ってこなくていいんだよ?」
「な……!」
小夜子は悪戯っぽく笑いながら、チロッと舌を見せた。
普段は大人しいのに、小夜子は妙に行動力がある。特に夏休みに兄の暁樹と実家に帰ったあとは、明るさも増したと思う。
とてもいいことなのだけれど、たまに……うん。たまに、とても恥ずかしい背中の押され方をする。
「す、すぐ戻るってば!」
「いってらっしゃい」
なにもないとは思うのだけど。
九十九はそう思いつつも、小夜子たちにいもたきを任せて湯築屋のほうへと戻っていく。こういうとき、シロはどこにいるのだろう。
そう思って考えた結果、やはり思いつく場所は一つだった。
「シロ様?」
再び呼びかけたのは、シロが九十九の視界に入ってからだった。
広い湯築屋の庭の中でも、一番高い場所。季節によって種類は変わるが、だいたいこの場所には大きな樹が立っていた。目が冴えるような眩しい黄色のイチョウの間から、藤色の着流しが見えている。舞い散る落ち葉は地に落ちることなく、塵のように消えてなくなる幻想の樹だ。
「九十九?」
九十九の呼びかけに、シロが応じる。
こちらを見下ろすシロは不思議そうに。されど、いつもと変わらぬ様子であった。
「呼んでも来てくれなかったので、探しにきました」
シロから問われる前に、九十九は告げた。
すると、呼びかけを無視した記憶があるのか、シロは難しい表情を作った。
「あとで行くつもりだった」
なんとも、気のない返事だ。
九十九は少しばかり、ムッと唇を曲げた。
「わたしは、今、会いたい気分だったんです」
自分でもビックリするくらい、すんなりと言葉がわいてきた。
そういえば、以前にここへ来たときも、「今すぐシロに会いたい」気分だった。
「そちらに行っても、いいですか?」
「……わかった」
一歩、二歩と、九十九は樹へ向かって歩く。
すると、樹の枝が蛇かなにかのようにグニャリと曲がった。枝は九十九の身体を易々と持ちあげ、樹の上へと運んだ。
ストンと、九十九の身体はシロの隣におろされる。
「こんなところで、なにしてたんですか?」
「なにもしておらぬよ。少し風にあたっていただけだ」
「……ここ、結界だから風吹きませんよね」
「例えだ」
適当なことを言って、のらりくらりとかわされてしまう。
「わたし、迷惑かけましたよね」
「何故?」
シロがいもたき会場を離れた理由は、九十九が思っているものと違うのだろうか。違和感を覚えつつ、九十九はたどたどしく言葉を重ねてしまう。
「わたし、わかってますからね……シロ様にとって、わたしは巫女で……そんなに大した意味なんてないって……すみません。わたし、変に意識してるみたいな反応しちゃって」
なにを言っているのだろう。
自分でもわからない。混乱して舌がもつれて、よくわからないことを言っている。言っているうちに、だんだん、両目に涙が溜まってきた。
わたしが言いたいことは、こんなことなのかな?
今すぐシロ様に会いたかった理由って、こんな言い訳をするためだったのかな?
「構わぬ。儂が悪かった」
勘違いさせて、すまぬ。そう付け足されているような気がした。
九十九は口を半開きにしたまま、シロを見つめる。
シロは変わらない表情のまま、九十九に視線を返していた。
シロ様は、今なにを考えているんだろう。
どんな気持ちで、九十九の話を聞いているのだろう。
「シロ様がわたしを好きになるなんて、ありえないですからね」
自分で言いながら、胸が痛くなった。自らの手で、割れたガラスの破片をつかんで押し込んでいる気分だ。
めりめりと、抉るように胸の中が軋む。
「わたしは……ちゃんと、巫女をやれるようにがんばります」
あ……涙、こぼれちゃう。
そう思った瞬間、実際に涙はこぼれなかった。
「――――」
「…………」
実際は、涙がこぼれる前に九十九の身体は、強い力で押さえつけられていた。
それがシロの腕にきつく抱きしめられているのだと理解するのに、とても時間がかかってしまう。
背骨が軋んで、とても痛い。
いつものような、優しくて労わるような温かさなんてない。
本気を出せば逃げられるなどという余裕は一切ない。
ただただ、力強くて。
ただただ、激しい。
肩越しに感じるシロの息づかいが震えている。
「え、っと……シロ様……?」
こんなに近いのに、九十九の声など聞こえていないのだろうか。シロは九十九を捕える手を緩めなかった。
「い……痛い、です……」
そう言うと、ようやくシロは我に返ったように、九十九の身体を解放した。半ば突き飛ばされるようにシロの身体から離されて、とても寒く感じる。
今の間になにが起きたのか、理解できなかった。
「すまぬ」
シロはポツリと言って、九十九から視線を逸らす。
その様がとても突き放されているような気がして、酷く寂しさを覚えてしまう。
「シロ様?」
どうしてだろう。
九十九には、シロの肩が震えているような気がした。
「……なに、怖がってるんですか?」
シロがなにかを怖がっているように見えた。
怯えているのではないか。
神様であり、湯築屋のオーナー。この結界の支配者で、絶対の力を持っている。それなのに、なにを恐れるというのだろう。九十九の考えはとてつもない見当違いだと、考えればすぐに理解できる。
それでも……九十九には、そう見えてしまったのだ。
「儂は……違う……」
微かな声が唇から漏れている。
シロはなにに怯えているのだろう。
それは九十九の感じとることができないことだ。
きっと、九十九が知らないこと。今の九十九には言えないことだ。
安易に聞いてはいけないこと。
「大丈夫ですよ、シロ様」
なにもわかっていない。
わかっていないけれど、九十九は笑みを作った。
「シロ様は大丈夫です」
泣いている子供をあやすように。
九十九はそっとシロの頭に手を伸ばした。
白い絹束のように滑らかな髪に触れる。狐の耳がピクリと指の間で動いた。
「よしよし」
さっきまで、泣きそうだったのは九十九だったのに。
なんだか、おかしな話だと思った。
そう思うと、さきほどまでのグチャグチャとした気持ちはどこかへ消えていた。
「何故、そなたはそうなのだ……」
「え?」
これは問いかけだったのだろうか。
シロの言葉に、九十九は声を詰まらせてしまう。
「…………」
戸惑っている九十九の前に、フッと灯を吹き消すような小さな風が起こる。
次の刹那には、シロの姿は綺麗さっぱり消えてしまっていた。きっと、霊体化して姿を隠したのだ。
今のは、なんだったのだろう。
いつの間にか、おさまっていた涙の代わりに不安が胸を占領していた。




