9.夫婦にも、いろいろあるんですね!?
「も……だ、め……!」
再び足を掴まれ、九十九の身体が前に大きく傾いた。
手を伸ばすが、ギリギリのところで門に届かない。
「まったく……我が妻は厄介なものを惹きつける天才のようだな」
フッと耳元を風が通り過ぎる音がした。
陽の光を吸っても損なわれない深い黒髪が白い肌に落ちる様は艶やか。
気がつくとシンプルなブラックジーンズと白いシャツを着た青年が、九十九の手を引いていた。
誰かに似ているが。
「あ……」
「疾く、入れ」
急に身体が浮き上がるように軽くなり、開かれた湯築屋の門へと吸い込まれる。身体に絡まった髪の毛も外れており、解放されたのだと実感した。
「えっと」
門の方を振り返ると、青年の姿はなかった。代わりに、無数の髪の毛が押し入るように、門の隙間から湧き上がっている。
あれは誰だろう。
知らない顔だが、知っている神気――。
「案ずるな。外界用の傀儡よ」
歌うように美しい声に振り返る。
絹のような白い髪と、藤色の着流しがフワリと揺れる。大きな白い尻尾が、安心させるように九十九の頬を撫でた。
シロの手元には、呪術に使われる人型の紙札が握られていた。
そこでようやく、先ほどの青年はシロが結界の外へ出るための「傀儡」であったことを理解する。要するに、自分の身代わり人形だ。
「私の夫……旦那様……浮気なんて許さない……許さない……許さない。許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない!」
髪の毛を操る女性が結界内に侵入する。
いくら高名の神でも、結界の内側では多かれ少なかれ影響があるものだ。けれども、女性の神気は多少揺らいだ程度で、全く弱まる気配がない。
それほど、怒りが激しいということか。まるで、嵐のようだ。
「う……シロ様……!」
九十九は不安になってシロを見上げた。だが、シロは焦るどころか涼しい顔で、煙管を口に加え、フゥッと煙を吐き出している。
緊迫しているときに、のんきな! 九十九は全力で抗議しようとしたが、そのとき、宿の玄関から誰か出てくる気配があった。
「おおー! ワカオカミよ。そろそろ帰る頃合いであると思っておった! 早くキモノに着替えて、余の相手を――げっ」
ご機嫌の表情で出てきたのは、先日、お客様として迎えたギリシャ神話の天空神ゼウスであった。
だが、ゼウスは門から入り込む女性を見るなり、一転、青ざめた顔で肩をがくがくと揺らしはじめる。
ゼウスの姿を見て、シロが不敵に微笑んだ。
「応、これはゼウス殿。喜び給えよ、愛しの奥方がお見えだ」
奥方?
シロの言葉に九十九は首を傾げた。けれども、すぐに言葉の意味を理解する。
ゼウス神は移り気の神であり、女性関係の逸話も多い。
そのたびに鉄槌を下すのが、女神ヘラ――ギリシャ神話の女神であり、ゼウス神の妻である。
「じゃあ、この人って……」
ゼウスの姿を見た瞬間、渦巻いていた髪の毛がピタリと動きを止める。
「あら……やだ……」
女性――女神ヘラは白い顔をほんのりと赤らめて、甘い笑顔を作った。そして、色気のある女らしい仕草でゼウスに向かって駆けていく。
九十九を追っていた鬼の形相とは違いすぎて、なにが起こったのか理解できない光景だった。
「ダーリン、来ちゃった!」
まるで十代の乙女のような声音で、ヘラはゼウスの胸に飛び込む。
ゼウスは引き攣った苦笑いで、妻の身体を受け止めた。
「ヘ、ヘラ!? 何故、此処へ……」
「また置いて行かれて、ヘラ、寂しかったんですぅ。どうして、一人で行っちゃうんですかぁ? ダーリンがまた浮気しているかもしれないと思うと……」
「う、浮気!? そ、そ、そそそのようなことなど、するはずもなかろう! 此度は、まだ愛人を作れておらぬ」
ゼウスがたどたどしく受け答えする。
「まだ?」
甘い笑みを貼り付けたまま、鋭い視線。ゼウスは急いで首を横に振りながら、「未来永劫、作るつもりはない!」と訂正した。
「本当に? じゃあ、ヘラも一緒にお泊りしてもいいかしらぁ?」
「も、勿論だとも……! 一緒に観光でもしようではないか!」
「うふ。嬉しい!」
そんな夫婦の光景を眺めて、九十九はようやく気の抜けた息をついた。
「お客様が一人増えたようだ。もてなしてやれ」
「そうみたいですね……」
落ち着く間もなく、九十九は立ち上がる。
「もしかして、シロ様」
「なんだ?」
「……ゼウス様がわたしに手を出さないように、ヘラ様に居場所を教えましたか?」
「さて……なんのことだか」
あ、こいつ、絶対に告げ口したわ。
声に出さず確信しながら、九十九はシロを睨みつけた。
そんな視線など気にせず、シロは九十九の顔を無遠慮に覗き込む。
「な、なんですか」
「擦り傷がある」
「へ?」
指摘されたときには、遅い。
シロの顔がグッと近づき、九十九の頬に唇を寄せる。気がついたときには、頬を軽く舐められていた。
「なっ!? なに、するん、で、す!」
「擦り傷程度なら、舐めておけば治る」
傷には唾をつけて治せ理論にしては、ダイレクトだ!
しかし、これがあながち間違いでもなく。実際に、シロが傷を舐めると癒される効果がある。擦り傷程度なら、一瞬だろう。九十九が急いで舐められた頬を擦ると、指に血はつかなかった。
「美しい顔に、いつまでも傷が残るのは良くないからな」
「だ、だからって……! セクハラですっ! スケベ!」
「なんだ? 儂は、なにか間違っていたか?」
全然伝わってない!
キョトンと首を傾げるシロの顔に悪気は一切ない。恐らく、スケベ心の欠片もないだろう。こういうところが、ズレているというか尺度が違うと感じてしまう。
九十九が独りで憤慨していると、ようやくシロはなにかに気づく。
「嗚呼、そうか。そういうことか」
やっとわかったか! 駄目夫! そう叫ぼうとした唇を塞ぐように、いきなりシロが九十九の顔に近づいてきた。
「頬ではなく、口にして欲しいという意味なら、疾く言えばよかろ――」
「全然、わかってなーい!」
今度は明らかな下心が見えていたので、心置きなくアッパーをかましてやった。