12.覚悟はあります
足湯ガールズトークに乱入したシロの報せで、九十九と小夜子は湯築屋を飛び出した。
暁樹が蝶姫を襲っている。
シロは予測していたようだが、小夜子には寝耳に水だ。そういうことなら、もっと早く行ってほしい! と、九十九はシロに文句も抱えていた。
「ちなみに、儂は言われた通りにガールズトークとやらを盗み聞きはしておらぬぞ! 誓って、違うからな!」
「今、そっちはどうでもいいです! 早く助けに行かないと……!」
「案ずるな。既に碧と八雲が出ている」
仲居頭の碧は神気が使えないが武道の達人である。お客様として訪れた戦神・毘沙門天から「女人ながら乱世であれば、無双の将と成れただろうに、真に惜しい」と言われた腕前の猛者だ。本当に普段の碧からは想像もつかないが、剣の腕だけでそう言わしめるのは流石。
番頭の八雲も登季子を除くと湯築の一族の中で、現在、トップクラスの神気の使い手だ。実家は東予の神社で宮司をしており、志那都比古神――つまり、風神の加護を受けている。九十九がシロの力を借りるのと同じように、八雲も風の力を操ることができた。
神気の扱いに慣れていない半人前の九十九よりも、よほど頼りになる二人だろう。
「その二人が先に行ってるなら安心ですけど……むしろ、小夜子ちゃんのお兄さんがボコボコにされていないか心配です」
「儂が行くよりマシであろうに」
神が相手ならばともかく、相手は鬼と鬼使いだ。
シロが出ていっては(実際は使い魔か傀儡)、完璧にオーバーキルである。
「……湯築家って、能力高すぎませんか? 九十九ちゃんが謙遜してる理由がわかった気がする……」
小夜子がボソッと身震いした。
九十九も同意はするが、他の神職関係者の家系がどうなっているのか知らないため、ちょっとピンとこない。
本当は、九十九が湯築の巫女だ。
真っ先に神気の修行をしなければならないのに。
女将である登季子の方針で、成人するまでは巫女の修行を行う必要はないというお達しがあるのだ。九十九も学校へ行きながら湯築屋の若女将をこなし、巫女修行する自信もなかったため助かるとは思っている。
そう思っているが……なんだか、こういう場で役に立てず申し訳ない気もしていた。
シロが使い魔で毎日見張っているのも、九十九が未熟だからだろう。
シロの使い魔に導かれて辿り着いたのは、湯神社の敷地だった。
道後温泉本館を見下ろすことのできる小高い丘の上という立地で、駐車場にもなっている。主祭神は大国主命と少彦名命であり、いずれも道後温泉に所縁のある神だ。
「お兄ちゃん……!」
敷地内で争っていたのは、前情報の通り、暁樹と牛鬼。そして、碧と八雲、蝶姫が対峙していた。
蝶姫は左腕が瘴気で侵され、真っ黒に変質している。般若の能面の目からは血のようなものが流れていた。
「蝶姫……」
蝶姫の負傷を見て、小夜子は動揺の色を浮かべていた。そして、真っ先に駆け寄っていく。
暁樹はそんな小夜子を睨んで、歯を食いしばっている。
「蝶姫、蝶姫……! 大丈夫!?」
負傷している蝶姫に、小夜子は必死で呼びかけていた。
「――――」
「そんな風に見えないよ! 早く湯築屋に帰って治療しよ?」
「――――」
「でも!」
蝶姫の言葉は、九十九には聞き取れない。
鬼使いではない九十九には、結界の外で鬼の言葉を聞くのは難しいようだ。
九十九が困っているのを察したのか、白い猫の姿をしたシロの使い魔が肩に乗る。そして、尻尾でもふりと九十九の耳を撫でた。
「妾はよいのじゃ……」
結界の内側と同じように、蝶姫の言葉が九十九にも聞こえた。シロが力を貸してくれたのだ。
「シロ様、ありがとうございます」
「造作もない」
シロの使い魔はモフモフの毛並みの胸を張る。九十九は猫の毛を撫でてやった。使い魔は嬉しそうに喉をゴロゴロ鳴らす。
「しかし、結界の外で改めて見ると、あの娘の神気……」
シロの使い魔は琥珀色の両目を細めて、じっくりと小夜子を凝視する。
しかし、シロが言葉の続きを発する前に、暁樹が声を荒げていた。
「小夜子、その鬼から離れろ!」
なにを言っているのだろう。
蝶姫は小夜子の友達だ。小夜子を襲ったりなどしない。それに、今は負傷しており、満足に動ける状態ではないはずだ。
それでも、暁樹の眼は真剣であった。
その視線に気圧されて、小夜子に動揺の色が浮かんでいる。
「お兄ちゃん、なにを言っているの? 蝶姫は、私の友達で……大切な友達なの! こんなことして許さない。私の友達に酷いことしないで……もう……私から、なにも盗らないでよ……」
眼鏡の下の瞳が揺れ、目尻から涙がこぼれる。
それは小夜子の悲痛の叫びだった。
「私には、鬼使いの才能はなかった……でも、お兄ちゃんのことも、お母さんやお父さんのことも嫌いじゃないの……ずっと、あの家で一緒にいたかったのに……どうして、私のこと、追い出したりしたの?」
小夜子を追い出した――。
言い回しに九十九は口を噤んだ。
これは兄妹の会話で、九十九が口を挟めるものではない。
「小夜子」
暁樹は困惑しながら、小夜子の話を聞いていた。
いや、聞き入れるというよりは、受け入れているように思えた。
「お前から、盗った、か……」
暁樹は小夜子の言葉を受け入れたうえで、目を伏せた。
「俺からしたら、お前に盗られたんだよ」
暁樹からは既に戦意が喪失していた。
ずっと物騒な日本刀を突きつけていた碧も、刃を鞘に納める。
「妹が生まれたとき、その子が鬼使いになったら、自分は別の職に就けると思ってた。周りと同じように進学して、好きなことをしていこうって子供心に思っていたよ……でも、お前のせいで鬼使いになるしかなかった」
暁樹は淡々と語った。表情はなく、ただ用意された文章を朗読しているかのようだった。
それを聞いて、小夜子は大きく目を見開いて両手を口に当てる。
「お兄ちゃん」
「でも、そんなこと思ったってどうしようもないだろ」
どうしようもない。
吐き捨てられた言葉は九十九にも刺さった。
どうしようもない。どうしようもないから、巫女になる自分を受け入れた? 九十九は自分にそう問うたことが何度もあった。
九十九は湯築の巫女で、生まれたときから決まっていたこと。
それは、どうしようもないことだったのだろうか?
「だから、俺はお前に譲ったのに……あの狂った家から出て、普通に暮らしていけるように。そのために、お前を追放しろって、母さんと父さんに言い続けてきた。お前には鬼使いの才能はない。だったら、あんな家にいるよりも、関係のないところで普通に暮らしていけばいい……俺はそうしたかったのに、できなかった」
暁樹は自分が鬼使いになったことを、どうしようもないことだと思っている。仕方がない。義務なのだと。
だから、小夜子には別の道を歩ませたかった。
それが小夜子の幸せだと信じているから。
「それなのに……鬼と友達? お前は、普通に暮らせばいいだろ! その鬼がお前を喰おうとしたら、どうする。お前にそれが防げるのか? その鬼を縛れるか?」
「蝶姫は……私から勝手に食べられようとしたの。だから、蝶姫は私を食べてもいいの! 縛る必要なんてない!」
小夜子は元々、自分から蝶姫に喰われようとした。
それは蝶姫も以前、九十九に語っていたことだ。
だが、蝶姫はそのときは喰わなかった。いい娘に育つまで、喰う気はないと言っていたが、その真意は別にある気がする。
「私、とにかく、消えたくて……消えたくて……どこにも居場所なんてなくって……でも、蝶姫は私をそばに置いてくれた。一緒にいてもいいって初めて思えたの」
小夜子は傷ついた蝶姫の身体を抱きしめた。
「今、蝶姫が私を食べたって構わない!」
抱きしめられた蝶姫が小夜子の腕の中で顔をあげている。
絶対に揺るがない。
小夜子の言葉は強くて、美しかった。
その横顔を見て、九十九も自分の心臓が高鳴るのを感じる。
「わたしが口を挟むことじゃないと思いますが……わたしも、生まれたときから巫女でした。他に代わりもいなくて、どうして自分がって思うことも、時々だけどあったんです」
湯築の巫女になるのは、どうしようもなかった。
他に誰も代わりがいなかった。
そんなことを思ったことはあった。
けれども、
「でも、わたしは楽しいです。湯築屋の若女将も、シロ様の巫女も、どっちも楽しいです。誰かにさせられたとか、どうしようもなかったとか、そんなこと関係ないです。わたしは、今のわたしが一番好き。後悔なんてしていません……小夜子ちゃんのお兄さんは、どうなんですか?」
本当にどうしようもないだけだったのだろうか。
逆に聞いてみたかった。
「若女将。その言葉、今度女将にも聞かせてあげてくださいね」
九十九の言葉を聞いて、八雲が微笑んでくれた。彼の真意はよくわからないが、九十九はあいまいに「え、はい!」と答えた。
「旦那ぁ……こいつら、本気でわかっていやせんぜ?」
いつの間にか、牛鬼が人型になっていた。こちらの姿は争うためのものではないようで、戦意のようなものは見えない。そもそも、暁樹にその気がないので襲ってくる心配もないだろう。
「その娘さんの価値は、鬼にしかわからねぇってことですかね」
牛鬼は肩を竦めた。
蝶姫は小夜子の腕の中で顔を伏せてしまう。
小夜子の、価値?




