11.お客様、困ります
昔は、なんにでもなれると思っていた。
同年代の子供たちが夢を語りあうのを見ているのは、気分が悪かった。
宇宙飛行士、サッカー選手、俳優、漫画家――彼らが自分になれるかどうか知るのは、ずっと先だ。大人になって、あるいは、学業を修める過程で少しずつ気づき、少しずつ諦めていく。
けれども、暁樹は物心ついたころから鬼使いの修練をしていた。凡庸な才能しか持たないなりに、使い物になるよう、父親から叩き込まれていた。
選べる未来なんて、なかった。
諦める夢なんて、持てなかった。
だから、妹が生まれたときは素直に嬉しかったのだ。
代わりができて、やっと、解放される。
自分も、他の子供と同じように夢を語りながら学校へ通うのだ。
なにを目指そう。学校の先生になりたい。いや、勉強して医者になろうか。それとも……そう思っていた。
けれども、生まれてきた妹には才能がなくて。
無能で。
おちこぼれで。
結局、暁樹が夢を見ることはなかった。夢を見られるという、夢を見て終わった。
だから――。
「わざわざ、外界で話があるとは……ロクなことを考えておらぬのは、一目瞭然じゃのう」
訪れた鬼を、暁樹は冷たい視線で睨んだ。
蝶姫が般若の能面の下で浮かべている表情は見えないが、予想はできる。
「それでも、お前は来た」
暁樹は残らせた牛鬼に、こう命じた。
蝶姫を結界の外へ誘い出せと。
稲荷神の創り出す宿屋の結界は厄介である。これでは、暁樹の目的は果たせない。実際、目論見通りに蝶姫は外へ出た。
「あのようなことを言われて……来ぬわけにもいかぬじゃろう」
暁樹が月光に照らされた影を睨むと、平面だった地面が盛りあがる。黒い影は人の姿を形成し、やがて、それは牛鬼となった。
牛鬼は面の下で笑っているようだ。
「あっしは一番効果的な言葉選びをしただけでして。別に本気でもないが、あの娘を喰うと脅したら、お姫さんすぐに乗ってくれましたわ」
そこまで言えと命じた覚えはないが、結果的には目的が果たせたので上々か。暁樹が納得したことを確認して、牛鬼は再び姿を霧のように変える。
長い首に、血のように赤い身体。人とは遠い姿の巨躯の鬼が現れた。
土地に溜まった瘴気が集まり、鬼となった存在だ。人から鬼となった蝶姫と違い、より一層、化け物の側面が強い。
これは人と馴れあう類のものではない。
人を喰い、人に害為す災いそのもの。
鬼使いが長年、これを使役し、鎮めてきた。
「やれ」
暁樹が命令すると、牛鬼の影が瞬時に伸びた。
牛鬼が行動に移るよりも先に察知して、蝶姫も動く。互いの影が交わる前に地面を蹴って、人間離れした高い跳躍で身を引いた。
地面を伝っていった牛鬼の影から黒い煙があがる。鬼の吐く毒素が地面を侵し、瘴気で染められたのだ。
「やはり、そういうことか」
蝶姫の身体が歪む。派手な着物の端から小さな蝶へと変化していく。牛鬼の影に触れないよう、霧散するつもりのようだ。
相手は鬼。
神気と瘴気を併せ持つ存在だ。強い瘴気に当てられれば、そのバランスを失って崩壊する。その危うさを悟っているのだ。
「牛鬼、止めろ!」
言の葉に神気を乗せて、牛鬼に命じる。
牛鬼は一瞬で、影の中へと溶けていった。そして、木々や建物影を伝って蝶姫へ迫る。
「ぐ、う……!」
蝶姫の姿が完全に消える前に、牛鬼の影が蝶姫に追いつく。
速さも力も、牛鬼のほうが格段に高い。鬼としての格がそもそも違うのだ。
蝶姫の腕から瘴気の黒い煙があがった。
「妾を……愚弄するな!」
蝶姫は瘴気に侵された腕で地面に張りついた影をつかむ。
影の中にいる以上、牛鬼に物理的な攻撃は一切当たらない。しかし、神気や瘴気を帯びた一撃であるなら別だ。
「捕まえたぞ!」
蝶姫が影の中から牛鬼を引きずり出す。
渾身の一撃のようだ。腕が牛鬼の吐いた瘴気に侵され、黒く変色していた。
引きずり出された牛鬼のダメージは少なそうだ。それどころか、牛鬼をつかむ蝶姫の腕を伝って、瘴気を流し込み続けている。
「平伏せ」
暁樹は鬼を縛る言の葉をもって、蝶姫に命じる。蝶姫は苦しそうにうめきながら、その場に膝をついた。鬼使いの言葉に縛られて、身動きが取れなくなっている。
小夜子と違い、暁樹は鬼使いだ。言の葉で鬼を使役する。
それは牛鬼相手だけに限った話ではない。鬼である限り、蝶姫も暁樹の言の葉には逆らえない。鎖に縛られたように従属させられる。
「う……ぐ、ぁっ!」
しかし、蝶姫は暁樹の言の葉に抗おうと、顔をあげた。
般若の能面から紅い血のような、涙のようなものが流れ出ている。あまりの気迫に、暁樹は一瞬、たじろいでしまった。
その刹那、暁樹と蝶姫の間を薙ぐように、強い風が吹いた。
「――お客様同士の喧嘩は困ります」
いつから、そこにいた?
こつ然と現れた気配に、暁樹は背筋が凍る。
ふり返るより先に、首筋に刃の感覚があった。本物の日本刀など、初めて間近に見る。
「今、首が落ちておりましたよ?」
真剣が月明りを吸って、妖しく煌めいた。
声は品のある淑女だが、覇気がある。動いたら確実に首が飛ぶという殺意にも近い警告だ。このような声など、今まで聞いたことがない。
「旦那!」
牛鬼が蝶姫を放って、そのまま暁樹を助けようと影を移動する。
一瞬で距離は縮まり、背後の人物を退ける――かのように思えた。
「困りますと、申しております」
今度は男の声と共に強い神気を纏った風が薙ぎ、牛鬼が移動する影を両断した。
「はいぃ!?」
牛鬼が実体化し、信じられないと言いたげに叫んだ、
牛鬼は影の中を移動している。この状態であれば物理的な攻撃など受けつけないはずだ。暁樹にも、なにが起こったのかわからない。
「湯築屋の従業員たる者、お客様のお相手ができなければ務まりません」
そよ風が吹き、やがて、旋風となる。
風の力を巧みに操るのは、先ほどの旅館で見た番頭だった。暁樹に日本刀を突きつけているのも、仲居である。
「お兄ちゃん……!」
もう一つ声がして、暁樹はハッとふり返る。
「小夜子」
息を切らせて現れたのは、小夜子だった。友達の若女将もいた。
彼女は蝶姫と暁樹を交互に見て、息を整える。
「蝶姫……」
当然のように、小夜子は自分ではなく、蝶姫のほうへと駆け寄っていった。




