9.海辺にひらりと蝶のように
彼の娘の言葉は、実に心地がよかった。
鬼とは神気と瘴気を併せ持つ者。
神霊ともなれず、悪霊ともなれず、されど、妖にもなれぬ。
神秘であり、半端な存在。
人から鬼の存在となった姫の思考を支配するのは常に生前の後悔と無念だった。
唇が吐くのはすべてを呪う怨みの言葉。
眼に映るのは歪み切った世界。
耳に入るのは嵐のような雑音ばかり。
内から瘴気が育って溜め込まれていく。
これでは、悪霊と何ら変わらない。いつ堕ちるともわからぬ、危うい存在だ。
事実、鬼となったものの自我を保てず、瘴気に呑まれて消滅、あるいは悪霊の類と成り果てる者が大半だった。
神気と瘴気の均衡がとれ、神霊に近い存在である鬼は自我を上手く保つ。そのような鬼は首魁となり、鬼を統率することがある。あるいは、鬼神となった。
それらに支配された鬼たちは、首魁の恩恵を受け、怨みの念や瘴気を溜め込む苦痛が軽減されるらしい。大江山に住まったという酒呑童子や、その配下たちがその類である。
されど、鬼となった姫はただ独り。
ずっと、五色浜を彷徨っている。
見つかりもしない白い蟹を求めて。
いつ消えるとも知れない危うい存在のまま。
――私……。
其の娘の声は鈴のように小さくて弱々しく、しかし、入り込むように耳へ届いた。
鬼は我が耳を疑う。
それまで、音は怨みや執念に押し潰されて、一枚壁の向こう側のように聞こえていた。理解できぬわけではないが、すべてが他人事。自分が意識を向けるに値しないものだった。
けれども、娘の声は鬼の耳に、直接届いたのだ。
――白い蟹を、見つけました。
娘の意図がすぐに理解できた。
わざと喰われようとしている。此の娘は、自分を餌に捧げようとしている。
力は弱いが、鬼使いのようだ。
その言の葉を使役するためではなく、ただ、鬼に│届ける《・・・》ために発している。
本来の鬼使いが操る言の葉とは、明らかに違う。だが、正体はわからない。耳にスッと入り込む声音の正体が、鬼には理解できなかった。
喰ってやろうか?
娘に興味がある。
鬼は好奇心から、娘を喰おうと一瞬悩む。
だが、思い留まった。
もう少し、この声を聞いてみたい。
――妾は、其れを探しておったのじゃ。
それから、娘との不思議な日々が続いた。
娘は毎晩、五色浜に現れるようになる。
絵具で塗った蟹を持ってくることは、もうなかったが、代わりに鬼のことを「蝶姫」と呼ぶようになっていた。人であったころ、自分にも名があった気がするが……そんなものは、忘れていたので、大して気にはならなかった。
娘の名前は朝倉小夜子。南予の鬼使いの一族だという。
小夜子は一人で喋り、蝶姫は聞き手に回ることが多い。蝶姫から話すことは特にないし、なにより、小夜子の言葉を聞いていたかった。
いつもはなにを聞いても、自分とは隔絶された場所の音に聞こえる。
蝶姫のことを「理性的だが変わり者の御せぬ鬼」であると風変わりな宿屋の神が評していたが、本人には関係ない。第一、奴の容姿は真っ白で気に入らない。
毎日、絶えず怨みと執念に憑りつかれ、内に溜まっていく瘴気に喘いでいるだけだ。
小夜子の声を聞いていると、それらが少し遠退くのだ。
それは心地よいと言ってしまっても、差支えがないもの。
「いやぁ、旦那の妹は案外可愛いもんで。旦那も少しは見習ってくれたら、あっしも楽なんですけどねぇ」
おかわりのもぶり飯を取りに、九十九と小夜子が退室したあと、牛鬼はヘラヘラと軽く笑った。
下手に出ているが、どこか読めない態度だ。
この鬼は、土地に溜まった瘴気が形となり、生まれている。蝶姫よりも古い鬼で、獰猛な性根をしているはずだ。けれども、結界の内側だからか、鬼使いに使役されているからか、その覇気をまるで感じさせない。
しかし、宿屋の前で九十九たちを襲ったときは、その片鱗を見せていた。
神の結界の中と言えど、油断するべきではない。
「姫さんは、あの娘を喰おうと思わないので?」
油断すべきではないと肝に銘じた途端、牛鬼はそんな質問を寄越した。
蝶姫は能面の下で眉を寄せる。いくら表情を歪めても、相手には見えない。が、おそらく、牛鬼には蝶姫の感情は読めているだろう。
「あっしなら、とっくに喰っていますけどね」
牛鬼は膳についていた楊枝を使いながら言う。面の下では、ニヤリと笑っているのだろう。
「下等な鬼と妾を一緒にするでない」
「でも、一度は喰おうと思ったでしょうに? ……いや、今も喰いたくて仕方がないはず――」
「たしかに、彼の娘は妾の餌じゃ。自分から喰われに来たのだからな……じゃが、今は喰わぬ」
餌と呼びながら、喰わぬと宣言するなど、我ながら矛盾している。
「まあ、印を刻んでいるからには、そうでしょうねぇ」
牛鬼は妙に言葉を強調しながら、肩を竦める。
「アレを只の無能と評価するとは……なるほど、あの娘が可哀想だ。そこらの凡人どもには価値がわからねぇ……しかし、あっしならすぐに喰いますねぇ、アレは。後回しにしている理由がわかりやせん。なんなら、印を解いてあっしに譲ってくれたって――」
「……黙るのじゃ。彼の娘は、妾の餌! 手出しはさせぬ!」
わざと煽るような口調だと変わっていたが、そう言わずにはいられなかった。
蝶姫は今すぐに牛鬼を排除しようと、神気を身体から放出する。だが、ここは稲荷神白夜命の結界の内部だ。客である蝶姫の力は制限を受け、思ったように発散させることができなかった。
「おっと、申し訳ねぇ。だがよ、姫さん。あんたにその力があるんですかねぇ? あんたにゃあ、アレは過ぎたモンじゃないですかい?」




