6.これが湯築屋のおもてなしです!
部屋の中にいた鬼は、般若の能面の下で微かに笑っているような気配であった。
暁樹はとっさに部屋の外へと後すさるが、鬼は手招きしている。
「もうすぐ彼の娘が料理を運んでくる。座って待っておれ」
暁樹の警戒など余所に、鬼はそう言って部屋の座椅子を示した。
どうせ、向こうも暁樹と同じく術の類は使えない。それに、見たところ鬼の格としては牛鬼よりも数段劣る。なにかあっても、対処できないわけではない。
暁樹は鬼の言う通りに、部屋に入った。
招かれてもいないのに、ちゃっかりと牛鬼も席に座る。
「……お前は本当に小夜子に使役されていないんだな?」
「食事を共にするというのに、開口一番それか? 随分と気が短い男じゃ……嫁を見つけるのに苦労しそうじゃの」
「余計なお世話だ!」
思わず大きめの声を出してしまう。牛鬼が笑いを堪えているが、「クククッ」と小さく声が漏れてしまっている。
「妾は誰にも属しておらぬよ。勝手に彼の娘と居るのじゃ……娘は妾を友と呼んでおるがな。蝶姫とは、勝手につけられた名じゃ」
「それはありえない話だ」
暁樹はまっすぐに蝶姫と呼ばれる鬼を睨んだ。
「鬼使いは神気を言葉に乗せて鬼を縛る……神気の弱い小夜子に鬼を縛る力などないはずだ」
「だから、縛られてなどおらぬ。只、話をしているだけじゃ」
「話?」
「昔話から、学校のことまで。妾は彼の娘から、話を聞いておるだけじゃ」
本当に?
本当に、小夜子は対話だけで鬼を従えているというのだろうか。
それは暁樹の知る常識とは異なっており、困惑する。
鬼とはわかりあえない。鬼は従えなければ制御できない。そういう種なのだ。
まさか――?
「お待たせしました、お客様」
暁樹の思考を遮るように、小夜子の声がする。
すぐに、襖が開いてお膳を持った小夜子が現れた。
分厚い眼鏡の下には、暁樹の知らない表情が浮かんでいた。
よく見る接客スマイルとは少し違う。つぼみが綻んで花となる瞬間のような、可憐だが素朴な愛らしさがあった。垢抜けていない純朴さが眩しい。
彼女にこんな表情ができることを、暁樹は知らなかった。
いつもなにかに怯えて、人目を気にして生きている。暁樹の知る小夜子は、そんな少女だった。
「旦那ぁ。今、可愛いなって思ってるでしょう?」
「はあ!? ……思ってない!」
牛鬼に指摘されるが、暁樹は否定して首をブンブン横にふった。
そんな暁樹の前に、夕餉の膳が置かれる。
「本日のお料理です」
目の前に置かれた膳は、いかにも「旅館のお膳」といった具合であった。
三種盛りのお造りや煮物が並ぶ中、目を引くのは鯛しゃぶ用の紙鍋である。品のいい昆布出汁に薄造りの鯛を潜らせて食べるのだ。瀬戸内の鯛は、ほんのりピンクに透き通っており、食欲をそそる。添えてある柚子の香りも非常によかった。
「ご飯物は、もぶり飯です」
伊予弁で「もぶる」とは、「混ぜる」という意味。
もぶり飯は、いわゆる、ちらし寿司である。
甘めの酢に、素焼きにして細かくほぐした瀬戸内の小魚の出汁を混ぜており、非常に香りがいい。また、具材も瀬戸内の魚介を使用している。
他所の人間なら感嘆するかもしれないが、どれも瀬戸内海の新鮮な魚が獲れる県民には馴染み深い品々。特に、暁樹は漁業が盛んな南予の人間だ。
美味しそうだとは思うが、目新しさはない。
「お客様」
ぼんやりと料理を眺めていた暁樹に小夜子が笑いかける。先ほどの「営業スマイル」と少し違って、やや緊張した面持ちだ。
「松山では、歓迎やおもてなしの席で、もぶり飯を出すんです」
小夜子は臙脂の着物に包んだ背筋を伸ばし、姿勢を正す。
改まった態度に、暁樹は気圧されてしまいそうになる。
「お兄ちゃんをお招きしようって言ったのは、若女将です。でも……これは、全力でお客様をおもてなししようという、湯築屋のみんなの気持ちがこもっています」
小夜子は三つ指を軽く床につけ、丁寧に頭を下げた。
「私は鬼使い失格です。だけど、ここのお仕事は続けていきたいの……初めて……私が、初めて必要とされたお仕事だから。納得がいくまで、やり遂げたいと思います」
暁樹は真剣に頭を下げる小夜子を見ている自分の表情が困惑していることに気づいた。
「駄目だ」
そういった瞬間に、小夜子の表情が曇る。
泣きそうで、自分に自信がない。暁樹の知る小夜子の顔だ。
けれども、すぐに瞳に力がこもった。
「嫌です」
小夜子が食い下がるなど予想外だ。ちょっとやそっとでは動じないという意志を感じる。
蝶姫が責めるように暁樹を見ていたが、こちらは無視した。
だいたい、この鬼と小夜子の関係が異常なのだ。
きっと、なにか企んでいる。小夜子は騙されているのだ。
「まあまあ、旦那。あっしは、この子を気に入ったし、好きにすればいいと思いますけどねぇ?」
普段のように縛られていないせいか、牛鬼が余計なことを言いながら小夜子に手を伸ばす。
その瞬間を見逃さず、暁樹は牛鬼の手を弾くように叩いた。
大げさにパーンと音が鳴り、驚いた小夜子が怯えて表情を揺らす。
「触るな!」
暁樹に叩かれて、牛鬼はつまらなさそうに息をついていた。
外にいたのか、音を聞いて「小夜子ちゃん!」と、旅館の若女将が飛び出してくる。しかし、暁樹が小夜子に危害を加えたわけではないとわかると、安堵したようだ。
一方で、暁樹を非難するような視線でこちらを見ている。
「もういい」
暁樹はそう吐き捨てて立ちあがる。
「お客様……!」
「お兄ちゃん!」
踵を返して部屋を立ち去ろうとする暁樹に、声が追いすがる。
暁樹は振り切るように、そのままその場をあとにした。牛鬼も渋々といった様子でついてきている。
なにが小夜子の働きを見てほしい、だ。
そんなものなんて意味はない。
それよりも、気がかりが増えた。
「牛鬼、お前はここへ残れ」
「ん? いいんでやんす? あっしは、構いやせんけど」
暁樹の命令に、牛鬼が意外そうに言葉を返す。
「ああ、代わりにやってもらうことがある」




