3.鬼使いの資格
結界へ入ると、そこは外の景色とは別世界だ。
黄昏の藍色に染まった空には月も星もなく、昼間も訪れない。カンカン照りの外界と比較すると、少し寒いと感じてしまうくらいだ。
湯築屋の結界の中は一年中、気候が一定である。シロ曰く、「年中、冷暖房完備状態」らしい。そのため、湯築屋の客室にもエアコンは設置されていなかった。
「あれって、小夜子ちゃんのお兄さん……なの?」
小夜子は門の前に現れた青年を兄と呼んでいた。しかし、向こうは小夜子のことを、まるで物かなにかのような口ぶりで蔑んだ。あまりの態度に九十九が怒りを露わにしてしまう程度に。
「うん……朝倉暁樹は、私の兄なの」
小夜子は小さな声で言った。
まだ少し怯えているようで、表情が暗く、肩がかすかに震えている。
あの牛鬼は恐ろしかったが、それ以上に……兄の暁樹に怯えているのだと思う。
「私が悪いのよ。九十九ちゃんを巻き込んじゃって、ごめんなさい」
小夜子は震える肩を押さえながら、弱々しく言った。出会ったころの余所余所しい小夜子を思い出す。
「九十九、怪我はないか?」
いつの間にか、傀儡と入れ替わる形でシロが立っていた。
白い髪が、ガス灯のぼんやりした明かりに照らされて、淡い温かみを帯びている。絹束のような髪色は、いつも周囲にあわせてほんのりと雰囲気が変化するのだ。
「シロ様たちに助けてもらいましたから、大丈夫です」
シロに触れられた肩から温かみが伝わった。やはり、傀儡の冷たさと違って人肌の熱は心地よくて安心する。神様だけど。
つい気を抜きそうになるが、九十九は表情を引き締めた。
「あの程度、小手調べのようなものだったぞ」
シロはフンと息をつく。さりげなくふんぞり返っており、少しばかり得意げな表情だ。それを読み取って、九十九は少しだけ笑う。
「わたしは、まだまだ未熟で……シロ様がいなかったら、怪我をしていたと思います」
「そうであろう、そうであろう? 儂、ナイスであろう?」
調子に乗せすぎている気がするが、九十九が対応できなかったのも事実だ。それに、今とても安心している。
「小夜子ちゃん、中に入ろっか……話聞かせてくれる?」
「うん……」
俯く小夜子の手を引いて、九十九たちは湯築屋の中へと入る。
庭に咲くのは、朝顔。
夕暮れのような空の下では夕顔のようにも見えるが、建物を這うように伸びた蔓には瑞々しい赤や青の花が咲いていた。
そんな庭が見える応接室で、小夜子は重い口を開く。
隣に座った蝶姫が心配そうに頭をなでている。
「私の家は、鬼使いの家系なの。南予の小さな町で代々、鬼を使役して鎮めているんだけど……私には、ほとんど神気がないから」
小夜子の家が鬼使いであることは知っていた。力が弱い落ちこぼれだと自分のことを卑下していることも。
けれども、じっくりと家の話を聞くことは今回が初めてである。
「宇和島の牛鬼祭りは有名だよね」
「そう。朝倉家は代々、牛鬼が人を襲わないように使役するのが役目なの」
今は南予地方の有名な祭りになっている牛鬼だが、その性質は本来、獰猛なものであった。海から訪れて人々を襲っては、喰い殺す。大きな口から毒を吐き、あらゆる生命を苦しめるという。
その牛鬼を使役して縛りつけることが、鬼使いとしての朝倉家の役目。
「神気って本来は女性のほうが強いものでしょ? でも、私にはその才能がまるでなくて……」
「え、そうなの? うちだと、八雲さんも強いけど?」
「一般的な話よ。たしかに、八雲さんは強いけど、神気自体は九十九ちゃんや女将のほうが強いじゃない」
「それ、よく言われるんだけど、あんまり自覚なくて」
九十九は巫女としては半人前だ。シロの力を借りて、ようやく扱える程度。
確認のためにシロのほうを見ると、「うむ」と否定する様子はない。
言われてみれば、湯築家は巫女の家系だ。一族で一番強いのは、常に女性である巫女だった。これは湯築家に限ったことではなく、だいたい常識的な現象のようだ。
良くも悪くも九十九には湯築屋の知識しかない。
考えてみれば、湯築屋に勤めている人間以外に、親戚ともあまり関わらなかった。というか、八雲のような親戚筋はたくさんいるはずなのに、あまり本家である湯築に顔を出さないのだ。
「鬼を使役できない鬼使いは、必要ないの」
小夜子は弱々しく、しかし、はっきりと言った。
「役目を負えない者は、鬼使いの資格がないから……私は追放されてるのよ。役立たずだから」
「追放って」
そんなの酷い! 九十九は声を大にして言おうとした。
しかし、隣に座っていたシロが黙って首を横にふっている。
湯築にも掟がある。同様に、朝倉にも掟があるのだ。口を出すことではないということだろう。
「中学のときに鬼使いの資格なしとして、こっちの親戚に預けられたの。もう鬼使いとは名乗らず、鬼とも関わらない約束をして」
でも、小夜子は蝶姫と出会って友達となった。そのあとも、湯築屋で神や鬼と関わって働いている。ずっと追放された朝倉家との約束を破ってしまっていたのだ。
「だから、私が悪いの」
小夜子が蝶姫と出会った経緯を本人の口から聞いたことはない。
だが、小夜子は自ら喰われようとしていたのだと、蝶姫が話してくれたことがあった。
鬼使いの家に生まれたが、役立たずとして追放され、鬼と関わることも禁止された。小夜子がどんな気持ちで蝶姫に喰われようとしたのか、九十九には想像することしかできない。きっと、真に理解することは不可能だろう。
「でも、やっぱり酷いよ」
なにを言うべきか。九十九にはわからない。
だから、九十九は言いたいことを言うことにした。
「小夜子ちゃんと蝶姫様は本当に仲が良くて、友達というか、親子というか……見てるだけで、こっちが安心するの。きっと、小夜子ちゃんは鬼が好きなんだと思う。それなのに、関わるなって」
小夜子の湯築屋での働きを見ていてもわかる。
たしかに、小夜子は鬼を使役できない。鬼使いとしては落ちこぼれなのかもしれない。
それでも、一生懸命なのだ。蝶姫とも、こんなに心を通わしている。彼女が鬼使い失格であるとは、どうしても思えなかった。
「ありがと、九十九ちゃん……でも」
「小夜子ちゃんは、それでいいと思ってないでしょ? だって、蝶姫様を助けるために、とても必死だった。なんとか、自分のできることをしたじゃない」
「そ、それは……結局、私はなにもしていなかったし……駄目だってわかってたから、そのうち、どうにかしなきゃって……」
「小夜子ちゃんは鬼使いなんだよ。失格なんかじゃないよ。鬼と関わらないなんて、難しいと思う」
九十九が言い切ると、小夜子は押し黙ってしまう。
蝶姫は小夜子を見守っているだけだ。
「ねえ、小夜子ちゃん」
九十九はニッコリと唇に笑みを描いた。
「わたしたち、友達でしょう?」
小夜子が顔をあげ、九十九を見据える。
「頼ってくれても、いいんだよ?」
大きく見開かれた眼鏡越しの瞳に、涙が浮かんだ。




