2.文句があるならシロ様が受けて立ちます!
「……お兄ちゃん……」
そうこぼした小夜子の言葉に、九十九は目を瞬かせる。
お兄ちゃん、とは。
九十九は小夜子を見たあと、門の前に立った青年を凝視した。たしかに、目元や口元など顔の造りが小夜子と似ている気がする……けれども、冷たい印象の視線や、不機嫌に引き結ばれた唇から感じられる雰囲気は小夜子と似ても似つかない。
「ここでなにをしている、小夜子?」
静かに、そして、ゆっくりと開いた口は、九十九でも驚くほど冷淡だ。それが溢れ出す神気にも由来するものだと気づいて、反射的に紺色の肌守りをつかんでしまった。
ピリリとした緊張感は独特で、神々とは違った重さがある。
小夜子の兄の背後に揺らめくのは、強い神気と瘴気を併せ持った――鬼の影だった。
小夜子は鬼使いとしての能力はほとんどないが、兄のほうからは神気を感じる。背後にひかえる鬼の影も、強力なものだった。
九十九は本能的に警戒する。
「……お兄ちゃん、あのね……」
「お前は、鬼使いにはなれなかっただろう?」
小夜子の言葉を遮って、兄である青年は突き放すように言葉を発した。
彼の背後で蠢く鬼の影が大きく縦に伸びていく。
「牛鬼……!」
その鬼影の正体を悟って、九十九は背中に冷や汗が流れた。
牛鬼伝説は全国に存在する。
主に海岸に現れ、人を襲うことを好む鬼だとされていた。口から毒を吐き、人間を食い殺すという。ことに愛媛県南予宇和島に残る牛鬼伝説は有名だ。現代では「牛鬼祭り」という巨大な牛鬼を模した台車を使用した夏祭りとして親しまれているが。
五、六メートルほどの巨躯と長い首。凄味のある大きな口のお面で、牛鬼がまっすぐに九十九と小夜子を見下ろした。こんなに強い鬼を使役するなど……小夜子と違って兄は本物であると認めざるを得ない。
「稲荷の巫女が伏して願い奉る 闇を照らし、邪を退ける退魔の盾よ――」
「九十九ちゃん!」
九十九の持つ肌守りにはシロの髪の毛がおさめられている。巫女である九十九はシロの力の一部を借り受ける形で使うことができた。
しかし、とっさに退魔の盾を作ろうとするが、間に合わない。術が完成する前に、牛鬼が長く伸びた影を伝って毒の瘴気を放っていた。
「――――」
出遅れてしまった九十九の前に影が現れる。
影は一瞬で人の形――五色浜に住まう平家の鬼、蝶姫となった。表情の読み取れない能面の下は、怒りが表現されているように思える。
昨年の夏、蝶姫は五色浜で堕神によって力を疲弊させられた。それ以来、湯築屋に療養目的で長期滞在している。もっとも、現在は鬼の力もすっかりと取り戻したため、ほとんど小夜子のアルバイトぶりを見守るための宿泊に切り替わっている。
「――――」
蝶姫は物言わぬまま、九十九と小夜子の前に立っている。おそらく、言葉を発しているはずだが、九十九には聞き取れなかった。
鬼使いではない九十九には、シロの結界の外で鬼と会話するのは難しい。鬼がなにを言っているのか理解できないし、こちらの言葉も伝わらないのだ。
それは、神気と瘴気を併せ持つ鬼の性質に由来すると聞いたことがある。
「よくもまあ、儂の宿の前で……」
いつの間にか、九十九のすぐうしろにも気配。
人肌を感じない冷たい腕が、九十九の肩を抱き寄せた。
「シロ様……!」
整いすぎた顔が九十九を覗き込む。
シロが結界の外へ出るための傀儡だ。鴉色の髪の下で、美しい顔が笑みを結んでいる。シロを思い起こさせるが、どこか人形的。冷たいとまでは言わないが、人間味が薄い。
九十九があまり好きな顔ではなかった。
「さて、どうしたものか」
シロの傀儡は九十九を自分の懐におさめながら、右掌を広げてみせた。牛鬼の強い毒気を含んだ瘴気が煙のように消えていく。あの一瞬で、牛鬼の瘴気を受け止めて無力化したらしい。
傀儡越しだが、シロは神だ。鬼など相手にならない。
きっと、結界の中にいる本物のシロであれば、瘴気を撃たれる前に鬼を無力化してしまう。湯築屋の結界でのシロはどんな神をも凌駕する。鬼など相手にならないはずだ。
その強さ故に、結界の外には出られないのだが。
「小夜子、その鬼は――」
しかし、目の前に神の一柱であるシロの傀儡が現れたというのに、小夜子の兄の目線は一点に注がれていた。
「お前は鬼使いではないのに……」
小夜子を庇うように立ち塞がった蝶姫。
般若の能面の下の表情はわからない。けれども、視線にこたえるよう、まっすぐ顔をあげていた。
「儂を無視しおって!」
「シロ様、今、そういうのいいです」
話がこじれそうなので、シロは黙っていてもらいたい。
しかし、
――お前は、鬼使いにはなれなかっただろう?
――お前は鬼使いではないのに……。
言い回しが気になる。
小夜子はうつむき、黙ってしまう。
その背を、蝶姫が支えるように優しく撫でた。
「私は……その……蝶姫を使役してるわけじゃ、ないの」
「当たり前だ。お前に鬼の使役などできないからな」
「違うの……友達、なの……」
「は? ふざけたことを」
必死に絞り出された小夜子の言葉を踏みつけるかのように、青年は冷淡な言葉を吐いた。
「お前は鬼使いではないんだ。鬼と関わるなんて、馬鹿な真似を……」
眼鏡のレンズ越しの瞳は、とても冷たい。
「……そんな言い方」
気がつくと、九十九はシロの傀儡の手をふり切って、前に一歩出ていた。
「そんな言い方、あんまりです! 小夜子ちゃんは立派な鬼使いです! 蝶姫様とちゃんと対話してます。うちに来るお客様も、みんないい鬼使いだって褒めてくれます! 鬼のお客様も気に入ってくれています! 小夜子ちゃんのお陰で、常連さんも増えました! そんな言い方しないでください!」
いや、宿泊客だからといって暴れられても困るけれども。と、自分で突っ込みそうになったが、勢いに任せて言い切ってしまう。一度啖呵を切ってしまうと、なかなか引っ込みがつかないというもの。いつもは、こんなことなんてないのに。
今、九十九は怒っている。
小夜子を――友達を貶されて、単純に腹が立っているのだ。
冷静ではないのに、冷静に自分をそう分析した。
「小夜子が……鬼と対話?」
相手は怪訝そうに眉をひそめていた。
「小夜子ちゃんが鬼と仲がいいと、なにか気に入らないことでも!? 文句があるなら、シロ様が受けて立ちます!」
「そうだ! 儂が受けて立つぞ!」
「つ、九十九ちゃん……いいの、これは私の――」
「だいたい、うちの宿に泊まりもしないくせに暴れないでもらえます? 営業妨害ですよ!」
言っていることが、正論なのかどうかよくわからなくなってくるが、もうどうでもいい。
「湯築屋の若女将として言います。うちの従業員を……わたしの友達を悪く言うことは許しませんから!」
九十九はそう言って、呆然と立っている小夜子の手を引いた。
「小夜子ちゃん行こう。今日は、うちに泊まっていいから」
先ほどまで、牛鬼に圧倒されてしまっていたというのに。やはり、傀儡とはいえシロが一緒なのが大きい気がする。いつまでもシロを頼っていてはダメだとわかっているが、今はそんなことなど、どうだっていい気がした。
「小夜子……!」
押し切るように湯築屋の暖簾を潜る。
結界の中へ入ってしまえば、そこは絶対不可侵。稲荷神白夜命に守られる領域だ。主が許可した者しか入ることはできない。
門の向こうで小夜子を呼ぶ声が聞こえ、小夜子の足どりが重くなる。
けれども、九十九は引き離すように歩調を速めた。




