11.身勝手で、醜くて
蛍の光がひらひらと。
規則性なく、飛んでいく。
あの光は、雄の求愛行動らしい。雌の気を引くための光だ。自然界では珍しくなく、雌よりも派手な生き物は少なくない。
と言っても、ここ湯築屋の結界の中に存在する蛍はただの幻影。雌の気を引くために光っているわけではない。そして、たぶん、葉の上で雄を待つ雌も存在しない。
そこにあるのは、只々《ただただ》綺麗で、夢のような光景だけ。
なにもないこの湯築屋の結界で、四季を象徴するためだけに存在している夢だ。
窓の外の光をぼんやりと見つめながら、九十九は頬杖をついている。
目の前に広げられた数学ドリルは半分ほどで投げられていた。ノロノロと解答を書き込んではいくが、身が入っているとは言えない。
ちょっとした騒ぎになったアフロディーテとジョーは、なんだかんだ満足されながら帰っていった。
――また、ママには内緒で来るから、そのときはよろしくね!
と、ウインクする姿が瞼を閉じれば浮かぶ。
常連になりつつあるゼウスについてヘラもよく訪れるので複雑だ。次も上手く隠せるとは思えない……むしろ、本当はバレているのでは? という気がしなくもない。
そう思うと気が重いが……お客様の再来館は嬉しいし、なによりも気に入ってもらえてよかったと思っている。
「若女将」
部屋の襖が少しだけ開き、声をかけられる。
九十九は「はいっ」と肩を震わせて、急いでシャーペンを手にした。別にサボッていたわけではないが、真面目に勉強していなかったとも思われたくはない。
襖が開くと、八雲がスッと入室した。
手にした盆の上には、冷たい麦茶と羊羹が載っている。
「薄墨羊羹です。お勉強がんばってください」
「ありがとうございます!」
薄墨羊羹は九十九の好物の一つだ。上品であとを引かない甘さや、コクの深さがクセになる松山銘菓である。特に九十九は黒糖味が好きだった。
「――先日のことですが」
盆を九十九の机に置きながら、八雲はおもむろに口を開いた。
先日のこと――九十九は、すぐになんのことだかわかってしまう。
――強いて言えば、うらやましい……でしょうか。
気まずい。
それなのに、八雲はなんでもない世間話のように。
「あの……」
「本当は、こういうことを言うのは、あまり好ましくないと思っているのですよ。ただ」
一瞬、ふと。
過ってはいけないことが、頭に浮かぶ。
八雲は優しい笑みのままだ。
昔は、なんとなく「お父さんに似た雰囲気だなぁ」と思っていた。ふんわりと包んでくれる春風のようで……厨房に立つ幸一に、とても似ているのだ。
意識的なのか、無意識なのか。
今の九十九には、八雲の雰囲気は違ったものに見えてしまっていた。
けれども、そんなはずは……話に矛盾があるではないか。登季子は生まれつきアレルギーで、シロとは結婚できなかったはずで……。
たぶん、違う。違うと思っているのに、どこかで確信してしまった。
「ただ、若女将には後悔してほしくないので……想いは留めていても、理解されませんよ」
自分は後悔したから。
そう、言葉のあとにつけ足されている気がした。
「八雲さんが昔好きだった人って――」
お母さんなの?
問いかける前に、八雲は笑顔を作ったままスッと唇に人差し指を立てた。
「受験勉強の邪魔をしてしまいましたね」
きっと、八雲さんは後悔したんだ。
もしかすると、今でもずっと。
九十九は、もっと話を聞いてみたい衝動に駆られたが、あえて口を噤んだ。これ以上、聞くのはよくないし、いいことにはならないと本能的に悟ったからだ。
九十九が抱えている想いは、八雲が抱えた後悔に比べると、幼いものかもしれない。もっと単純で、馬鹿らしいことのように感じてしまう。
けれども、きっと同質のものだ。
吐き出してしまいたい。
でも、伝えたところで、どうにもならない。
だって、シロは神様だから。
シロ様から、愛されたい。
代々娶ってきた湯築の巫女としてじゃなくて。
神様の妻としてじゃなく。
わたしだけ、なんて……そんなわがまま、言えるはずなかった。
第6章終了です。
次回の更新は1月頃を予定しています!
また、2巻の発売が決定しています。来年の春あたりになると思いますので、時期が近づきましたら順次告知します!




