7.神様のご忠告
――この旅でしか味わえない、日本。
「なぁんか、旅行会社のキャッチコピーみたい」
カランコロン。
客のいない露天風呂につかりながら、九十九は独り呟いた。
道後の温泉は熱めの源泉と温めの源泉を混ぜ合わせて、温度管理を行っている。湯築屋では少々熱めだが、43度で湯を提供していた。長湯には向かないが、身体の芯まで温まり、発汗によって老廃物を体外に出すことが出来る。
昔はちょっと熱くて苦手だと思っていたが、慣れるとこれが実に気持ち良い。
お客様が入浴する前の早朝お風呂は九十九の日課であり、癒しのときでもあった。
早朝ではあるが、結界の内側なので空は太陽もない黄昏色。藍色を背景に、桜が白く浮き上がるように咲いている。
もっとも、この桜はシロが生み出す幻影のようなものであり、本物ではない。季節によって、花の種類を変えることが出来る。
紛い物の花。
「ずいぶんと真剣にお考えのご様子。もしかして……恋のお悩みかしら?」
一人きりの露天風呂に、クスクスと鈴のような笑い声が聞こえる。
九十九は少々驚きながら、隠れるようにスッポリと首まで湯船につかった。濡れた髪はタオルに包んで上げているので、湯船には落ちない。
「驚かせないでくださいよ……天照様」
「あら、申し訳ありません」
客のいない露天風呂に現れたのは天照大神だった。岩戸の間に引き籠り、もとい、連泊中の上客である。
普段は部屋からあまり出ないが、時折、九十九が朝風呂に入っている時間に現れるのだ。慣れてはいるが、唐突に現れるので気が抜けない。
「恋の悩みは、実に良いものですわ。輝かしい! とても素敵なことなので、この天照に打ち明けてみては如何でしょう?」
「いやいやいや、そもそも恋の悩みではないので……」
お客様に恋愛相談する若女将ってどうなのよ。その前に、恋の悩みでもなんでもないし。九十九は内心で苦笑いしながら、天照を見上げる。
少女の姿をした日本神話の神は、一糸纏わぬ身体を隠しもせずに、湯船の方へと歩く。見目は十にも満たない幼さだが、胸のふくらみやウエストのくびれがあり、「女性」の身体であると思わせた。
幼さと成熟した女らしさが両立しており、奇妙な妖艶さがある。シロとは別の意味で美しいと感じざるを得ない。いつもは部屋に籠ってアイドルのDVDを鑑賞しているが、やはり目の前にいるのはお客様なのだと実感する。
「そうなのですか? 人の女子は恋に悩むと輝くものなのに」
「確かに恋をすると綺麗になるって言いますけど、わたしは別に綺麗じゃないし……」
「そうでもなくってよ? あなたは十二分に美しく、眩い」
湯の中に白く艶めかしい足を滑り込ませながら、天照は薄く笑った。
笑み、というよりは、仮面のような表情。しかし、そこには確かにハッキリと笑みが刻まれている。
まるで、船乗りを誘う人魚のような笑みのまま、天照は九十九の頬に手を触れた。
「勿体ない。別天津神の供物でなければ、この天照が貰い受けますのに」
「こと、あまつ……? 天照様、わたしはそんなんじゃ……」
「気をつけなさいませ。あなたの身体、甘い蜂蜜のようですわ。とろとろと甘いだけでなく、内から輝いています。釣られた妖に食べられてしまわないよう、ご注意を」
天照の指が九十九の唇をなぞる。
ぞくりとするような感覚に九十九は息を呑み、言葉を失った。
別天津神とは、日本神話に登場する原初の神々である。
天地開闢を行い、世界を創ったとされる。天之御中主神、高御産巣日神神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の五柱を示す。ことに、天之御中主神は最初に現れた神であり、至高の存在とされる。
どうして、天照からそんな名前が出てきたのかわからない。
ただ、天照が意味もなく神の名を口にするとも思えなかった。
「本当に、残念ですわ」
天照は仮面のような笑みのまま嘆息した。
だが、次の瞬間、霞がかかったように、妖艶な笑みが揺れる。幼い少女の姿をした女神の身体が、ぼんやりと霧の向こうへと消えていく。
「客と言えど、我が妻に手出しする者は容赦せぬよ」
姿を消していく天照と入れ替わるように、湯船につかった九十九を後ろから抱き上げる腕があった。
どんな腕力をしているのか。九十九をヒョイと片手で持ち上げたのは、唐突に現れたシロだった。九十九は反射的に脇に置いてあったタオルで身体を隠す。
「あら、いつもお世話になっていますから、経験豊富な女神として恋愛相談していただけですわ」
「嘘申せ。あわよくば、巫女の神気を味見しようとしておったくせに」
「人聞きが悪いです。そんなこと、叶うはずもありません……稲荷神」
シロはこの上なく不機嫌な表情で、天照を睨んだ。
しかし、天照はこれ以上、なにも言う気がないようである。
「嗚呼、若女将。今日はCDを買いに行きますので、久々に外出しますわ。店舗販売限定のポスターを入手しなくてはなりませんから。こればっかりは、通販では難しいですからね。悪しき転売屋は撲滅せねばなりませんし」
最後にそう言い残し、スゥッと、強い神気と共に姿を消していった。恐らく、そのまま部屋へ帰っていったのだろう。
「九十九、大事はないか?」
シロは腕の中に抱えた九十九を心配そうに見下ろした。お客様と湯船で話していただけなのに、大袈裟だ。
だが、そんなシロの心配など、九十九にはどうでもいいことであった。
「シロ様……」
「なんだ? どうした、九十九?」
「もしかして……わたしのお風呂、覗き見てましたか!?」
裸体のまま、隠すものなど申し訳程度に巻いたタオル程度しかない九十九をまじまじと見下ろすシロの顔めがけて、強烈なアッパーが炸裂する。
シロは避ける間もなく後ろに仰け反って、九十九から手を放す。
その隙に、九十九は露天風呂の岩陰に隠れた。
「やだ! 見ないでください! というか、タイミング的にずっと覗いてましたよね!? そうですよね!?」
「誤解だ、九十九! 儂は心配して毎日……それに、お前は儂のものだ! なにを今更恥ずかしがっておる。むしろ、積極的にもっと見せるべき――ごふぁっ」
「最低です! 最ッ低ッ! 出てけ、このスケベ神!」
「ス、スケベ? 儂のことか!? 儂はまだ欲情しておらぬ!」
「黙れ、馬鹿神! 別の意味でも失礼よ!」
「はあ!?」
近くに置いていた風呂桶を投げつけると、見事顔面に直撃。更に、足元に向かって固形石鹸を滑らせてやると、これまた綺麗にシロの身体が傾いた。
湯の中へと沈んでいくシロから逃げるように、九十九はそそくさと脱衣場に走った。浴場で走るのは宜しくないが、緊急事態だ。良い子は真似しないように。
「もう、ほんっと最低!」
ブツブツとシロへの文句を垂れながら、九十九は学校の支度をした。