5.羨ましいんですよね?
「ねえってば……ワカオカミちゃん。ママったら酷いのよ? ジョーのことを馬鹿にして! ちゃんと神なのにぃ」
まるで友達に語りかけるように、お客様――アフロディーテは畳の上で足を組み替える。湯築屋の青い浴衣の隙間から、豊満な胸がこぼれ落ちそうになっており、目のやり場に困った。当の本人がまったく気にしていないので、余計に。
波打つ蜂蜜色の髪を指でクルクルと回し、瑞々しい唇をムッと歪めている。
「ぶっちゃけ、現在の信仰者人口で言ったら、オリュンポス十二神よりもジョーのほうが多いと思うのよね?」
「うう、その質問は答えにくいです……」
ジョー・ジ・レモンと言えば、世界的なロックスターだ。
熱狂的なファンを世界中に持ち、数々の伝説的なレコード記録を保持している。ロックにあまり詳しくない九十九でも、曲を聴けばわかるレベルだ。
たしかに、アフロディーテの言う通り現在進行形でジョーを信仰する人間はかなりの数になるはず。交通事故で亡くなったというニュースが流れた直後、世界中で自殺者が増えたとも言われている。
現代において「神様」になるような人物だ。
ジョーのファンをアフロディーテは信仰者と呼んだが、間違ってはいないだろう。
一方で。
湯築屋を訪れる神様たちが時々愚痴をこぼしているのは、現代人の信仰心だ。
古来より存在する神々は、自分たちへの信仰が薄れていることを実感しているという。熱狂的な信者は今でも多いが、かつてほどではないという。
神は人を超越する。
されど、人の信仰心がなければ存在することはできず――堕神となることもある。彼らにとって、現代人の宗教離れは深刻な問題と見るお客様も多かった。
「科学っていうのかしら。人は、多くの知恵を駆使して知識を手に入れたわ。それはあたしたちが授けたものではなく、人が自ら獲得してきたもの。だからこそ、彼らは神への畏怖を忘れている……なぁんて、言ってる神もいるけどね。あたしは、どうでもいいのよ。そんなの」
「いいんですか?」
「だって、あなたたちが失敗しながら手に入れたものでしょう? それを否定するのは、失礼ってものよ。神の寵愛を受けし者だけが特別ではないの。そこまで傲慢になるべきではないわ。人であろうと、神であろうと、等しく愛すべきです」
アフロディーテは甘い笑みを浮かべて、両手を組み合わせた。長い指と指が絡まる様も、そこに整った顔を乗せたポーズも、彫像のような完璧な美しさである。彼女が発する言葉一つひとつに、蜜のように人を引きつける力があった。
アフロディーテは恋多き神だ。
ヘパイストス神という夫がありながら、多くの愛人を作ったという。その中には、アドニスやアンキセスなど人間の男もいた。
「ジョーの歌は美しいのよ。多くの人を虜にするだけではなく、神までも魅了するの……神は人を檻で飼って愛で、気まぐれに殺すばかりではないのよ」
人間でありながらアフロディーテと結ばれたアドニスやアンキセスは、神によって命を落とした。アフロディーテを魔性の女神と評する歴史家もいるが……九十九は、目の前の女神を見て、そうとは思えなかった。
この女神は、本気で愛を注いでいるのだと感じる。
相手が神であっても、人であっても。
それは、九十九が知る神のあり方とは違った。
「あら……輝きの匂いがすると思えば……?」
唐突に。気配が現れた。
甘い甘い蜜のような、とろける声にふり返ると、少女が立っていた。薄墨のような透明感のあるしなやかな黒髪が垂れ下がり、太陽の色の瞳が上から九十九を覗き込む。
「天照様?」
天照大神。湯築屋の常連であり、現在、七十五連泊中のお客様である。
「ふふ、若女将も災難ですわね」
災難、とは? 九十九は一瞬、天照がなにを言っているのかわからなかった。
天照はくるりと見開いた、しかし、敵意の読み取れる眼でアフロディーテに視線を移す。
「神と人との線引きは必要ですわ。到底、対等とはなり得ないのですから」
天照はそう言いながら、一歩、二歩。
アフロディーテは畳に座ったままの状態で、天照を優しげな表情で見あげた。少しの間だけ、いや、随分と長く感じられる時を、そうやって見つめあう。
これ、まずいのかな? お客様同士の喧嘩? 九十九は目の前で睨みあう女神に、あわあわと口を開くが、言うべき言葉が見つからない。
「そう……推しと一緒に逃避行なんて、羨ましくなどないのですからっ!」
ただの嫉妬だー! と、九十九はガクリと首を項垂れてしまう。
「わたくしだって、推しと逃避行したい……などとは思っていません! ただ、少し羨ましいだけですわ! 少しだけ! 推しと温泉旅館でいちゃいちゃなど……そんなの、少しだけしか羨ましくないんですから!」
アイドルオタクの天照にとって、スーパースターであるジョーとアフロディーテの関係は羨ましいものなのだろう。
天照とアフロディーテのジョーに対する考え方に差はあるように思うが。
「すればいいじゃない? 思うがままに」
「うっ……」
歯を食いしばって地団駄を踏み鳴らす天照にも臆することなく、アフロディーテはニコリと笑った。
そういえば、天照は自分の最推し――天宇受売命にも、好きすぎて素直になれない神様であった。冬のダンスバトル事件を思い出して、九十九は苦笑する。いや、事件というか、事故だった。あれは事故だ。
天照にアップされた動画のことなど、もう考えたくない。
「ジョーは素晴らしいわよ。あたしのこと、無理に讃えようとしないし。素っ気ないけれど、ちゃんと愛してくれるわ」
「あ、あい……!?」
今度は九十九のほうが狼狽して反応してしまった。
我ながら過剰反応だと思ったら、案の定、アフロディーテがニッコリと優美にこちらを見て笑っている。天照のほうも、先ほどまでの地団駄など感じさせない魔性の笑みを浮かべていた。
「そういえば、此処には恋人の聖地というものがあるらしいわね」
アフロディーテが思い出したように両手をポンと叩く。
「え……まあ……はい。松山というか、日本中に?」
九十九はあいまいに答えて思考を巡らせる。
恋人の聖地とは、全国で「少子化対策と地域の活性化への貢献」をテーマとした「観光地域の広域連携」を目的としたプロジェクトだ。告白やプロポーズに適したロマンチックなスポットを選定して広めようという動きのことである。
もちろん、愛媛県内でも複数箇所が選定されていた。
「松山市で一番近いと言えば、松山城│二之丸史跡庭園でしょうか?」
聖地と言っても、神話的な謂れがあるわけでもない。観光PRの一環である。そのため、湯築屋のお客様から、恋人の聖地について聞かれることなど今までなかった。
ちなみに、恋人の聖地に認定された理由として、結婚式の前撮り撮影に年間五百件ものカップルが利用した実績が認められたからである。
また、日露戦争時のロシア兵捕虜と日本人看護師の名前が彫られた帝政ロシア時代の硬貨が一枚出土しており、国境を越えたラブロマンスであると評判だった。
「じゃあ、ワカオカミちゃん。あたしとジョーを、そこへ案内してほしいわ。デートしてみたいの」
「ご案内なら、もちろん。精一杯、おもてなしいたします!」
アフロディーテの求めに、九十九は大きくうなずいた。お客様のご要望には、応えたい。
すると、天照がいたずらっぽく唇に弧を描いた。
したたかで美しく、艶やかで……しかし、意地が悪い女神の微笑みだ。
「なら、稲荷神もご一緒されては如何でしょう? お二人の神気は稲荷神の結界によって守られております。稲荷神の加護が必要なのでは?」
「そのつもりよ。Wデートしましょ」
「ふふ。楽しんでいらっしゃいませ」
アフロディーテと天照の二人で、会話がポンポンと進んでいく。
その様を目の前で見ながら、九十九は頭を抱えるしかなかった。
「なに? 九十九、儂とデートしてくれるのか!? デートなのだな!?」
どこから湧いてきたのやら。
いつの間にか、シロがモフモフの尻尾をふりながら、身を前に乗り出してきた。
「シロ様、さっきまでいませんでしたよね? 空気のように霊体化してるんなら、ずっと空気でいてください」
「九十九、儂に冷たすぎぬか? はん、さては照れておるのか?」
「自意識過剰です!」
何故かシロが自信満々に胸を張るので、九十九はこちらが恥ずかしくなってしまう。駄目だこの神様、存在が恥ずかしすぎる。
「決まりね」
思わず顔を両手で覆う九十九の意見など無視されて、アフロディーテの言葉が締めくくりとなった。




