3. 真夏の夜の夢
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。
枕草子の一節である。
その言葉はまさにその通りであり、夏の夜は美しい。
湯築屋の結界内には月が出ず、薄暗い藍の空が広がるばかりだ。それでも、広い池には蓮の花が浮かび、青い光をたたえる蛍が飛び交っている。風など吹いていないのに、風鈴がカラリンと高い音を立てていた。
結界内の温度は一定だ。蓮も蛍も幻影であり、別段、暑くはないのだが……夏の風物詩というものだ。
縁側に座る九十九の隣には、女将の登季子。
女将でありながら旅館の業務ではなく、海外への営業活動を主に行っている。そのため、湯築屋にはほとんど戻ってこない。
久々の親子水入らずというわけだ。
「女将っ、若女将っ。スイカです!」
「ありがと、コマ」
縁側でのんびりと池の蛍を眺めていると、コマがスイカのお皿を持ってきてくれた。ちゃんと、種を捨てる小皿も、一つまみの塩も盆の上に用意してくれている。
両手で盆を持ち、トテトテと尻尾をふりながら、コマは縁側に座る九十九と登季子の間にスイカを置いてくれた。
「つーちゃん、お疲れ様」
登季子が持ちあげた麦茶のグラスの中で、氷がカランッと音を立てる。グラスを伝って落ちる水滴が蛍の色を吸い込んで反射した。
コマがチョコンと前掛けをつまんで、九十九の隣に腰かける。
短い足をプラプラと揺らしながら、スイカをシャクシャクシャクと少しずつかじりはじめた。表情がスイカの甘さと美味しさを物語っている。
「ウチ、スイカに目がなくて……八雲さんのくれたスイカ、美味しいですっ!」
コマがペッと種を小皿に出しながら、嬉しそうに笑った。
九十九はおもむろに周囲を見回す。
「そういえば、八雲さんは? 一緒に食べないの?」
今回のスイカは八雲が差し入れてくれたものだった。
「スイカを切ってくれたあと、用事があるからとお部屋にこもってしまいました。こんなに甘くて美味しいのにぃ……やっぱり、呼んできましょうか?」
コマが食べ終わったスイカを眺める。もっと食べたいようだ。
「いいよ。わたしが呼んでくる。そのほうが、八雲さんも混ざりやすいと……」
「別にいいのよ、八雲は放っておいて。来たかったら、勝手に来てるはずだから」
九十九が立ちあがろうとすると、登季子が遮るように手をふった。
登季子は暑くもないのに、うちわでパタパタと扇ぎながら笑う。
「そういう奴なの」
「そうなの?」
登季子は湯築屋にあまり滞在しないので、普段の八雲と接している時間は九十九のほうが長い。しかし、登季子はそれを否定するかのように断言していた。
八雲は勤続二十年のベテランだ。当然、登季子が若いころから知っているわけで……そういう意味では、九十九よりもつきあいが長いと言えるだろう。
「お母さん、八雲さんになにかしたの?」
「なんでだい? なにか言われたのかい?」
なんとなく、感じたことを口にしてみた。しかしながら、登季子は身に覚えがなさそうに両目を開いて、首を傾げている。心当たりはまったくなさそうだ。
ほとんど九十九の勘のようなものだが、八雲の登季子に対する態度に違和感を覚えたのは確かだったが……やっぱり、ただの勘違いかな?
「そういえば、お母さんの若いころの話って聞いたことなかったかも?」
「失礼だね。今でも若いよ?」
「見た目が若いのは否定しないけど、流石にもうすぐ四十なんじゃ……」
「まだ! 三十台だから!」
年齢については微妙に禁句のようで、登季子は声をあげて力説していた。
「ウチは、そろそろ七十五歳になります。女将はまだまだお若いと思いますっ!」
コマがスイカの種を必死に吐き出しながら、拳を握っている。化け狐の尺度では、たしかに登季子も九十九も、まだまだ若いし子供の部類だろう。なにせ、コマの年齢で半人前の子狐なのだから。
「それなのに、大きくてお仕事もできて……あと、天照様から合格もらえるなんて、すごすぎますっ! 女将も若女将も、尊敬ですっ! すごい!」
「そ、そんなに褒めてくれなくても」
「若女将、顔が赤いです。熱があるなら、お休みしますか? ああ……ウチじゃ引きずってしまいますから、白夜命様を呼んで、いつものように抱えてもらいましょうかっ!」
「いいから! そういうのいいから……! 大丈夫です!」
なにを勘違いしたのか、コマは一人でオロオロしはじめていた。単に恥ずかしくなっただけの九十九はコマを必死でなだめ、両手をふって元気であることをアピールする。
「そうなんですねっ。失礼しましたっ!」
「そ、そうよ。それに、いつも抱えてもらってるみたいな言い方やめてよね!」
「お二人は仲睦まじいご夫婦ではありませんか」
「な、仲睦まじ……違います!」
もしかして、九十九とシロは誰からも、そのように見えているのだろうか。そうだとすると、恥ずかしい。
「ふふ。あいかわらず、ここは楽しいねぇ」
二人のやりとりを見て、登季子が笑声をあげた。
「お母さんも、ずっと湯築屋にいればいいじゃない。営業はほどほどにして……」
何気なく。
それは九十九がいつも感じていることだった。
湯築屋の従業員は多くない。余裕もないため、女将である登季子がいてくれると助かる。それに、まだ女子高生である九十九に宿を任されるのも……不安なときがあった。
いつだって、お客様のために全力でやっている。
それでも、自信がないことだって、たくさんあった。
「それも悪くないんだけど……やっぱり、ワガママを通した以上、甘えてばかりもいられないんだよね」
登季子は縁側におろしていた膝を持ちあげ、腕の中に抱えた。
「いや、違うね。今もワガママを通しているだけだね」
登季子の言葉の意味は半分もわからない。
ただ、それ以上は聞き難いと感じてしまい、九十九は口を閉ざすほかなかった。




