11.人はそれを何と呼ぶ?
久しぶりに気分が晴れていた。
路面電車の道後駅を降りる足どりも軽く、弾んでいた。
「やあ」
アーケード商店街の入り口で、いつものように黒い猫――猫又のおタマ様が座っている。
「ただいま帰りました、おタマ様」
「元気そうでなによりだ、稲荷の妻……つまらない誤解は解けたかね?」
おタマ様は九十九の隣を歩く白猫の使い魔を見つめながら、両目を細めた。
使い魔は思い当たる節がないのか、不思議そうに首を傾げている。
「なるほど……早めに解決しておくことをお勧めしておくよ」
おタマ様はそう言って、大きなあくびをする。気まぐれな猫らしい仕草で伸びをし、定食屋の前に停まっている原付の上に飛び乗ってしまう。ここが彼の定位置であった。
「九十九、どういうことだ?」
使い魔が純粋な口調で問う。
これは本気でシロがわかっていないということだ。そのことが腹立たしいような、もう慣れたからどうでもいいような……。
「どう、って言われましても……」
「嗚呼、九十九。久しぶりに、坊ちゃん団子が食べたい。買って帰ろう」
九十九が言葉を濁していると、シロはあっけらかんと次の話題に移ってしまっていた。使い魔が猫の姿だからと言って、マイペースすぎではないか。
九十九は呆れながらも、商店街で坊ちゃん団子を買う。
坊ちゃん団子は松山銘菓の一つである。
元々は紅白の湯ざらし団子であり、文豪・夏目漱石も食べたといわれているが、今日では一口サイズの緑、黄、茶の三食団子のことを指す。それぞれ抹茶味、卵味、小倉味となっている。甘い餡の中にもっちりとした餅が入っており、九十九も大変好物であった。
「それを持って早く帰るのだ。待っておるぞ」
などと弾んだ声で言って使い魔はウキウキと前を歩いている。
坊ちゃん団子の箱を持ったまま、九十九はそのお尻を眺めて歩く。
いったい、誰と食べるために買ったんだろう?
どうしても、もやもやとしてしまう。
湯築屋の暖簾を潜ると、そこは外界から切り離された異界。藍色の空には太陽も月もなく、星の光さえない。ぼんやりと明かりの灯る三階建ての近代和風建築の旅館が、いつものように九十九を見下ろしている。
「九十九、待っておったぞ!」
程なくして、旅館の玄関がガランッと開く。
本物のシロが飛び出してきて、九十九は驚いて思わず肩をビクリと震わせる。一方のシロは犬のようにモフモフの尻尾を横にふって、頭の上の耳をピクピクと動かしていた。狐の神様のはずなのに、とても犬っぽい。思わず、頭を撫でそうになるが、やめておいた。
「もうっ、白夜ったら。突然、走り出してお行儀が悪いのだわ……あら、巫女が帰ったのね?」
ドキリ。
胸が大きく脈を打った。
「あら、坊ちゃん団子ね? 私、それも好きなのだわ。白夜、一緒に食べましょうよ」
玄関からこちらを見ているのは、宇迦之御魂神だ。おそらく、走っていったというシロを追ってきたのだろう。当たり前のようにシロのことを白夜と呼び、自分の所有物のような物言いをしている。
キュッと胸が締めつけられて……先ほどまでの晴れやかな気分など、どこかへ行ってしまった。
「これは、九十九と食べるために買って帰ったのだ! もういい加減にせよ、過保護にも程があるぞ。そろそろ帰れ!」
「あら酷い。そんな言い方をしなくても……用が済んだら、私などどうでもいいのかしら?」
「応!」
ん? なんだか、雲行きが?
二人の会話を聞いて、九十九は眉を寄せる。
「それが、母に対する態度なのかしら?」
「――――!?」
え? え?
え?
「え……は、母ぁッ!?」
宇迦之御魂神のセリフで、すべてが吹き飛んだ。
九十九は坊ちゃん団子の箱が入ったビニール袋を思わず落としてしまう。シロが慌てて「おっとっとっ」と声をあげながらキャッチしてくれた。
「あら、白夜。言っていなかったのかしら? そうです、この宇迦之御魂神こそが稲荷神の総元締め。そして、全ての稲荷神の母です。えへん、すごいでしょう?」
宇迦之御魂神は腰に手を当て、胸を張った。そのさまが、どことなくシロにそっくりだと感じてしまう。残念的な意味で。
「はあ!? 母などと適当な嘘を教えるでない……!」
「似たようなものだわ。私は白夜が心配で、こうして定期的に様子を見にきているの。もちろん、巫女が相応しい娘かどうかも見定めるのだわ」
宇迦之御魂神はそう言って、ウインクしてみせた。
だが、シロは心配そうに宇迦之御魂神と九十九を交互に見ている。
「えっと、実際は……お義母様なんでしょうか?」
「んー、厳密に言ったら白夜の言う通り嘘になるかもだけど、大雑把に説明すると嘘じゃないわね。ごめんなさい。この辺は、あまり知られたくないらしいから」
シロには秘密がある。
今は九十九に話せない秘密だ。そして、九十九は彼が話してくれるまで待っている。待つと約束した。
そのことなのだと悟って、九十九はそれ以上、宇迦之御魂神には聞かないことにした。
九十九の心中を察したのか、シロはホッと胸をなで下ろしている。
たしかに、母子のようなものならあの距離の近さも納得できた。自分の子のことを呼び捨てるのも、わかる。天照だって、神様同士だが弟のことは須佐之男と呼び捨てていた。
真相がわかると……なんと単純なことか。
そして、勝手に妄想していた九十九が馬鹿みたいだった。今考えると、あれもこれも……どれも恥ずかしい。
「じゃあ、シロ様が最初は正装してたのって……お義母さんの前で格好つけたかったから?」
「そうよ」
「違う! ちゃんとしているところを見せれば、早く帰るからだ!」
「付け焼刃で行儀よくしたって、私にはわかるのだわ。無駄ね」
宇迦之御魂神はフフンと笑って、三つ編みにした白髪を指でくるりと回す。
「ねえ、あなた」
宇迦之御魂神はフワリと地面を蹴った。すると、神気の力なのか重力に反した浮遊の動きで、九十九の前まで一瞬で移動する。
「白夜のこと、愛してくれているのね?」
「!?」
ストレートに問われて、九十九は言葉を失くして赤面する。心臓がバクバクと脈打つと同時に、そのまま力尽きて止まってしまいそうだと感じた。
「あ、あ、あい!?」
「あら、違うのかしら?」
すぐに答えられない九十九に、宇迦之御魂神は唇を尖らせる。
「もちろんだとも、九十九は儂の妻だからなっ! さっきも、熱烈な愛の告白を受けたばかりだぞ!」
「こ、告白!? そんなのしましたっけ……」
「忘れたのか? 儂の妻でいたいと言ったではないか!」
記憶を辿り、思い出す。
――わたしは誰ともおつきあいしないの……そうしたいから! だから、無駄です!
「え、ええ……でも、あれは、その。勢いというか?」
深く考えてなどいなかった。
でも、シロの妻でいたいと言ったことは、つまりそういうことで……でも、九十九としては、シロに恋することと、巫女や妻でいたいと思うことは同じではなく……でも、一般的には同じであって……難しい。とても難しい。
妻であること、巫女であること、恋愛すること。これらは、九十九の中では別々のピースであり、パズルのようにカチッと嵌った瞬間はない。
今まで恋愛をしたことのない九十九にとって、とても難解のように思えた。
「でも、私のことを愛人と勘違いして嫉妬していたんでしょう?」
「お、お客様を愛人だなんて……それに、嫉妬って……」
「だって、妻がいるのだから考えられるのは愛人でしょう?」
お見通しと言いたげに、宇迦之御魂神は九十九の唇に指を触れる。シロによく似た容姿の女神に見つめられ、九十九は閉口した。
嫉妬。
わたし、宇迦之御魂神様に嫉妬してた?
なんで?
「人は、それを愛と呼ぶのではなくて?」
誰にも、シロにも聞こえないよう、耳元でかすかに囁かれる。
九十九はハッと顔をあげるが、その頃には、宇迦之御魂神は距離をとるように離れて門の前に立っていた。
「母は嬉しいのだわ……よいものを見せていただきました。今回は帰ることにするわ。またね、白夜。寂しくなったら、いつでも呼びなさいな」
宇迦之御魂神はそう言い残して、湯築屋の敷居を跨いで出ていった。




