9.ぽんぽこぽんのぷんすかすか
「妖気の結界だな、大したものだ」
九十九の肩に飛び乗った使い魔は、称賛しているような気がした。
モフリとした毛並みが頬にフワリと当たるのが気持ちいい。今はそれどころではないようだけれど。
「妖気……妖ですか?」
「うむ、間違いなく」
ずっと違和感はあった。しかし、その正体はわからないままであった。
九十九は神気を宿した神の巫女だ。神様の気配を感じ、時にはシロお力を借りて操る。
けれども、妖の力には疎い。あれは神の使う神気とも、穢れた邪な瘴気とも違う。妖たちが使う特殊な力であった。
身近な存在として化け狐のコマがいるが、コマは妖気を扱えない。化け狐なのに、人や物に化けることもできなかった。
お客様として訪れる妖も多いが……たいていは、シロの結界によって力を制限されてしまっている。九十九が本来の妖の力に触れる機会は、ほとんどなかった。
「結界を張り、巫女を騙したか。使い魔相手であれば、充分だろうな」
「ええ? シロ様、どういうことですか? 騙した?」
「九十九から、儂のことは見えていたか?」
「え?」
どういうことだろう。九十九が首を傾げると、シロは呆れたように尻尾を揺らす。モフモフの猫の尻尾が、九十九のポニーテールをピョンピョンと弄んだ。
「そういえば、最近、シロ様の使い魔を見ませんでした……てっきり、いないものとばかり……」
「儂からはずっと見えていたがな」
「そ、そうなんですか?」
「ただし……そこの狸の姿は、女子の姿に見えておったな。もしかすると、会話も儂が聞いておったものと違うやもしれぬ」
「た、たぬき?」
白い猫がフンと鼻で方向を示す。
その先には、今まで見たこともないような表情で苦虫を噛み潰している将崇がいた。いつもの無垢で裏表のない様子からは想像もできない。いったい、これは誰なのかと問いたくなる。
「あーあ、もうバレちゃった。つまんない」
将崇はハアッと息をついて、ポケットに手を突っ込んだ。
「チョロいと思ったんだけど? まさか、君。神に二股でもかけてるの?」
「ふ、二股!? え、ええ……なんのこと……」
いやいやいや、そんなはずはない。九十九は稲荷神白夜命の妻で巫女だ。他の神に二股など……将崇には、少し曖昧な態度をとってしまった気がするけれど、それはそれだ。
「あ……」
しかし、ふと指でつまんだ十円玉に視線を落とす。
――きっと良いことあるぜ。ギザ十やるよ。
もしかして、この十円玉……貧乏神の加護がついていた?
貧乏神のギザ十によって、九十九は内部から結界に裂け目を作ることができたということなのか。自分でも気がついていなかった結界から出ることができた理由など、それくらいしか思いつかなかった。
やはり、貧乏神様は神様だ。十円玉を使わずに持っておいてよかった。
ありがとうございます、貧乏神様! 軽薄そうにニヤニヤ笑う貧乏神の顔を思い浮かべながら、九十九は心の中で感謝の言葉を述べた。
「なるほどね。これが湯築の巫女ってやつかぁ……ただ甘い匂いの下品な女だと思ってたのに。流石に爺様を山へ追いやっただけある」
将崇はつまらなさそうに、九十九を見下ろす。
励ましてくれたり、パンケーキを一緒に食べにいったりしたときの面影などない。その表情には、侮蔑すら浮かんでいると思う。
どうして、そんな顔をするのだろう。
「下品とは。我が妻は美しいというのに」
シロの使い魔がお尻をふって、ぷんすか怒っている。
猫なので、凄みがゼロだ。むしろ、可愛い。九十九は思わず、宥めようと猫の毛を撫でた。
「下品じゃないか。そんな、甘いだけの神気をタラタラ垂れ流しておいて……喰ってくださいって言ってるようなもんでしょ?」
「だから、儂が見張っておる。我が妻を脅かす者は何人たりとも赦さぬ」
「こんなに弱っちい使い魔で?」
白い猫の使い魔が「シャーッ!」と威嚇の声をあげている。毛が逆立っており、怒っているのがわかった。が、やはり、猫なので迫力には欠ける。
「立派な籠をこしらえているんだから、閉じ込めておけばいいのに。神なんて、どいつもそういうもんだろ?」
将崇は当たり前のように言いながら、ポケットから一枚の葉っぱを取り出した。
彼は赤みがかった髪の上に葉っぱを置き、両手で印を結ぶ。すると、足元からモクモクと白い煙があがった。
「ぽんっ!」
と、口で言葉を発しながら、将崇はその場で飛びあがって宙返り。
地面に降り立つときには……小さな茶色の獣――狸の姿になっていた。コマのように二足歩行でチョンと地面に立ち、腕組みをしている。口には、タバコかなにかのように葉っぱを咥えており、少しだけガラが悪い。
「伊予の狸の総大将、隠神刑部の孫とは俺のことっ! 稲荷神白夜命! 今こそ、爺様の無念を晴らしてやる!」
小さな狸は高めの声で叫びながら、シロの使い魔を指さした。小さな胸をドンッと張って、風に袋を揺らしている。
九十九は条件反射で目を両手で覆ってしまった……狸だけど。
「無念?」
一方、名指しで宣戦布告されたシロはポカンと首を傾げていた。
覚えがない、と言った表情だ。
「忘れたとは言わせないぞっ!」
「……とは、言われてもな?」
「し、シロ様、本当に心当りないんですか?」
九十九も問うが、シロは「むむむ……」と考え込んだまま思い出せないようだった。きっと、今頃、本体のシロも湯築屋で腕を組んで首を九十度くらいに傾げているところだろう。
本当に、なにも思い当たらないようだ。
シロは長生きしているが、人間と違ってあまり記憶が薄れないようだ。数十年前のニュースや夕食のメニューまで覚えていたりする。わざと、とぼけることもあるが、基本的に物忘れはしないらしい。
「爺様を山にこもらせたくせにっ! 忘れただって!?」
「え。シロ様、隠神刑部を追い出すなんて松山城に行ったことあったんですか?」
伊予狸の総大将、隠神刑部。「松山騒動八百八狸物語」という江戸時代の物語に語られる大妖怪だ。
愛媛の狸のまとめ役と言われる、妖の中の妖。八百八もの狸を従えており、松山城の守護を任されていたという。しかし、お家騒動に巻き込まれ、眷属もろとも洞窟に封じ込められたと言われていた。現在、その場所には、山口霊神として隠神刑部を祀る社が建てられている。
この騒動にシロが絡んでいるとは、初耳だ。
「違うっ! それは創作だっ!」
狸はプンスカと息巻きながら、地団駄を踏む。
「俺の爺様は、そんなつまんないことで封印されたんじゃない! 自分でこもったんだっ! ……湯築の巫女に婚約破棄されたせいで!」
「へ?」
九十九は思わず、間抜けな声をあげてしまう。




