1.春は出会いの季節です
ひらり、ひら。
桜の花弁が舞う季節が今年もやってきた。
黄昏色の結界の空に、淡い雪のようにひらひらと舞う。庭にたたずむガス灯の光を吸って、その白さが際立っていた。
「いってきまーす!」
九十九が玄関を飛び出すと、うなじでポニーテールがピョンッと跳ねる。クリーニングから帰ってきたばかりの制服のプリーツも綺麗にひるがえった。
湯築屋の門を出ると、景色は一変。春の麗らかで柔らかな陽射しに包まれる。近くの寺社から飛んできた桜の花弁が、風に小さな渦を巻いていた。
坂を下って少し歩くと、道後のアーケード商店街まで辿り着く。商店はまだ営業をはじめていないので寂しいが、道後温泉本館の前には朝から観光客が列を作っていた。
道後温泉本館は朝六時から営業しており、昼間の混雑を避けて早朝に利用する観光客も多い。
よく勘違いされるが本館の二階や三階は休憩所であり、宿泊施設ではない。そのため、観光客の多くは周辺の宿泊施設に宿泊するのだ。そして、その場合、宿泊プランの中に道後温泉本館の入浴券が含まれていることも多い。観光客は各宿泊施設の湯と、道後温泉本館の湯の両方を楽しむということだ。
湯築屋のお客様も、観光目的の場合は同じように両方で温泉に入ることが多い。
「やあ、稲荷の巫女……そうか、春休みというものが明けたのかね?」
駅へ向かって歩いていると、アーケード街の入り口で声をかけられる。
黒い猫がチョコンと座っていた。
「おタマ様! そうです。今日から学校なんですよ」
道後に住み着く猫又のおタマ様だった。いつも、だいたい同じ場所にいる。
九十九はクリーニングしたばかりの制服を見せびらかすように両手を広げてみせた。綺麗に洗って、プリーツをプレスしてもらうだけでも、気分が変わるものだ。
「この間、生まれたと思ったら、もう大人になっているのだから人間というのは忙しいな」
「大人って。わたし、まだ高校生ですよ?」
「時代も変わったものだ。君ほどの年頃ならば、少し前は充分に大人と呼ばれていたがね。吾輩が歳をとったということか」
おタマ様はクックッと笑って、顔を舐めている。猫又であるおタマ様にとっても、時代の移り変わりは神様たちと同じような感覚なのかもしれない。
「今日から三年生なんです。クラス分けは心配ですけど……」
「君なら、大丈夫だろうさ。誰とでも仲良くなれる」
「そうかな?」
「嗚呼、そうとも。稲荷神とも仲直りしたのだろう?」
おタマ様には以前、夫婦喧嘩を指摘されたことがあった。特に仲直りしたと報告した覚えはないが、どこか感じるものがあったらしい。
九十九は思わず顔を赤くしてしまう。
「も、もう、電車の時間なので行きますね!」
「いってらっしゃい、稲荷の妻。君は君が思っているよりも、ずっと他者を惹きつける……新しい出会いに幸あらんことを、吾輩も願っているよ」
おタマ様はそんなことを言いながら、大きなあくびをした。興味があるのか、ないのか。実に猫らしいと言えば、猫らしい仕草ではあった。
ちなみに、明治の文豪・夏目漱石が松山に滞在していたのは有名な話だ。松山を舞台にした小説「坊つちやん」は、多くの人に読まれている。しかし、実は「吾輩は猫である」の本当のモデルがおタマ様であることは、あまり知られていない。
「じゃあね、おタマ様! また!」
小走りで路面電車の駅へ向かう。
道後駅には、ちょうどマッチ箱のようなオレンジ色の電車が到着していた。九十九が滑り込むように乗ると、木の床がコンコンと鳴る。九十九は間に合ったと、ホッと胸をひとなでした。
窓の外を見ると、おタマ様が電車を見送るように前足をそろえて座っている。だが、九十九がひかえめに手をふると、おタマ様は興味を失くしたように踵を返して去ってしまった。
人に興味があるのだか、ないのだか。
猫は気まぐれだなぁと、九十九は思うのだった。
路面電車を降りて学校へと。
学校の前には掲示板が大きく立てられており、生徒がワラワラと集まっていた。毎年恒例のクラス替えの光景であった。
九十九は大学へ進学すると決めたため、進学クラスへ振り分けられているだろう。自分のクラスを確認するため、おずおずと掲示板の前まで移動した。
「えっと……」
九十九の苗字である湯築は、出席番号で言うと一番うしろになりやすい。そのため、九十九は無意識のうちに自分の名前をうしろから探すクセがついていた。
「あった」
自分の名前を確認して、更に他のクラスメイトを探す。特に嫌な生徒がいるわけではないが、これから一年間お世話になるのだ。やっぱり、きちんと確認しておきたい。
出席番号の一番上に、朝倉小夜子の名前を見つける。彼女も進学クラスに入ると聞いていたので、嬉しくなった。すぐ下に、麻生京の名前も見えた。
よかった。また小夜子ちゃんや、京と同じクラスだった。と、九十九は安堵した。
女子十四人、男子十六人のクラスである。これからの一年、仲良くしたいものだ。
「あ、ゆづー! 遅いんよー! 一緒に教室行こうやぁ!」
自分のクラスへ行こうかと方向転換していると、遠くから京に声をかけられる。どうやら、九十九と一緒に教室へ行くために待っていたらしい。
「今年も一緒、よろしくね!」
「おう。九十九がおらんと、うちボッチやもんね!」
「そんなことないでしょ。京、コミュ力あるし」
「寂しいって言いたいんよ。察して、恥ずかしいなぁ」
自称ボッチ宣言も、なかなかに恥ずかしい気がするけれど。
「そういや、うちのクラスは転校生がおるっぽいな」
「え、そうなの?」
京が得意げに笑いながら、掲示板を指さした。
見覚えのない名前はいなかったはずなんだけどなぁ……九十九は見落としがあったのかと思い、もう一度、掲示板を確かめた。
「あれ?」
女子十四人、男子十七人になっている。
さっき、見たときは男子十六人だった気がしたけど……気のせい?
「あの、ケイブって、転校生じゃないの? 見たことないと思うけど?」
「京、あれたぶん、ケイブ君じゃなくてオサカベ君だと思うよ?」
刑部将崇。
先ほどは見落としていた名前が掲示板に載っている。
苗字として「刑部」はギョウブとオサカベの二通りの読み方があると思うが、江口君と神田君の間に挟まれているので、オサカベと読むのだと九十九は推測した。
「名前って、読みにくいよね」
「それはそうだけど、京は元から漢字テスト苦手だもんね」
「いいんよ。赤点取らんかったら」
京らしい回答だ。
以前にも、天照大神を「てんてるおおかみ」と読み間違えたことがある。きっと、本物の天照に伝えても怒らないと思うが、あのときは呆れた。
そっか、転校生かぁ。
どんな子だろう?
九十九は新しいお客様を迎え入れるのとは、また違った気持ちで楽しみだと思うのだった。




