2.神様だって、こじらせるんです
若女将としての勘はよく当たる。
「このお宿も久方ぶりでありんすなぁ」
派手な紫のコートを着たお客様が湯築屋の門を潜ったのは、九十九が学校から帰宅して三時間も経ったあとのことだった。
やはり、路面電車の駅ですれ違った女性はお客様であった。九十九は落ち着いた所作で玄関に膝をつき、三つ指でていねいに頭を下げる。
「いらっしゃいませ、お客様。ようこそ、湯築屋へ」
「へえ。新しい女将?」
九十九の姿を、お客様は興味深そうに観察する。九十九は笑顔のまま顔をあげ、首を横にふった。
「湯築屋の女将は営業担当でございます。只今、北欧に出向いておりまして……不束者ですが、若女将の湯築九十九がお世話させていただきます」
「ふうん、若女将。なるほど、わかりんした。早速、案内しておくれなんし」
お客様は言いながら、首に巻いていた羽衣のようなスカーフをシュルリと解いた。すると、紫のコートが一瞬のうちに艶やかな着物へと変わっていく。スカーフは半透明な羽衣となり、まるで天女のような見目だった。
少し開けた着物の間から覗く豊満な胸や長い脚が非常に扇情的だが、芸術のような美しさも併せ持っている。
「わっちの名は天宇受売命でありんす」
天宇受売命は、日本神話に登場する舞踊と芸術の女神だ。九十九が会うのは初めてだったが、よく知っている神様の名前である。
天照大神が岩戸隠れした際に、活躍した逸話が最も有名だろう。
天照が岩戸隠れをし、この世に災いがあふれかえったとき、神々は彼女を引きずり出そうと一興を講じた。そのとき、楽しい舞踊で天照の興味を引きつける役割を担ったのが天宇受売命である。これが神事芸能のルーツであるとされ、彼女は現代でも舞踊と芸術の神として祀られることとなった。
「天宇受売命様なら、天照様のお部屋で百点満点出せそうですね」
「ええ? まだ天照様は岩戸ごっこをしていんす? あいかわらず、寂しがり屋でありんすなぁ」
どうやら、天照の「岩戸ごっこ」についても知っているらしい。言ってしまえば、天宇受売命は天照の最初の「推し」のようなものであり、歌って踊るアイドル好きとなった元凶のようなものだろう。きっと、天照も天宇受売命の来店を喜ぶに違いない――と、九十九は勝手に思っていた。
「別に、寂しくなどありません! 勝手なことを若女将に吹き込まないでください!」
聞き覚えのある声にふり向くと、可憐な少女の顔が真っ赤に染まっていた。
ひな人形のような着物を引きずって歩いてくるのは、湯築屋に連泊中の常連客・天照大神その人である。
だが、どうも具合がいつもと違う。いつものように少女の見た目とは反した魅惑的な余裕も、魔性の雰囲気も感じとれない。
ただただ幼い子供みたいに、見た目相応の態度でズンズンと天宇受売命のほうへと向かっていく。
「宇受売! また性懲りもなくやって来て! わたくしのことは放っておいてくださいませ!」
「これはこれは。天照様、わっちに会えなくて寂しい思いをさせんしたね。お許しなんし」
顔を真っ赤にして激怒している様子の天照に対して、天宇受売命はフフフっと余裕の表情を浮かべている。おかめのような優しい顔立ちが、更にふっくらと丸みを帯びる気がした。
天照が翻弄されている?
目の前の光景に、九十九は口をあんぐりと開けたままにしてしまった。いつも小悪魔のように人を魅了して自分のペースに持ち込む天照が、まるで本物の子供のようだ。どうしてしまったのか、目を疑った。
「五月蝿いと思えば……やはり、こうなるか」
フッと、突然気配が現れる。
慣れたような、慣れないような。ギョッとして隣を見ると、シロが腕組みをして立っていた。
「シロ様、ご存知なんですか?」
「天宇受売は、たまに来る客だからな」
たぶん、神様の「たまに」の頻度は人にとっては、とても長いのだろう。そういう常連客は何人もいると聞かされているので、驚きはしない。
「天照様にとって、天宇受売命様って最古の推しだと思っていたんですが……」
「たぶん、その認識は間違っていないが、本人に言うと暴れはじめるぞ」
「……もう暴れてます」
天照は床を踏み鳴らして地団駄踏んでいる。まるで、本物の子供だ。いや、子供そのものであった。このときばかりは、九十九も天照のことを見た目相応の年齢にしか感じない。
「帰ってくださいませ!」
「好かねえことを言いんせんでくんなまし。それに、わっちは温泉を楽しみたいんでありんす。天照様のことは、関係ありんせん」
そう言いながら、天宇受売命は天照の頭をポンポンと撫でた。その動作が気に障ったのか、天照は再び地団駄踏んでキーキーと叫びはじめる。
「あれは面倒くさいこじらせ方をしているからな」
「こじらせている、ですか?」
「まあ、爆弾は儂が引き受けてやるから、その間に客人を部屋まで案内するといい」
シロはそう言って、両手を振りあげて怒りの表現をはじめた天照の身体をヒョイと持ちあげた。いくら子供っぽいとはいえ、お客様を俵担ぎはどうかと思う。
「降ろしてください!」
「大人しくせぬと、落とすぞ」
「そっと、降ろしてくださいませ!」
叫ぶ天照を抱えるシロの表情は至極面倒くさそうだったが、これでお客様をようやく部屋まで案内できる。九十九は改めて、天宇受売命に対してお辞儀した。
「それでは、お客様。お部屋まで案内します」
「ええ、頼みんす」
天宇受売命は動じない表情で九十九のほうへ向き直る。
天照の扱いには慣れているのだろう。彼女は天照の側近として仕える神でもあった。考えられないほど長い時間を過ごしているはずだ。
「久方ぶりに楽しめそうで、わっちも嬉しく思ってござりんす」
「ええ。お客様のご期待に添えられるよう、精いっぱい努力します!」
「それは頼もしい。期待していんすよ?」
どのようにおもてなしをしよう。天宇受売命の望みはなんだろう。
そんなことを考えている九十九には、天宇受売命の期待の意味はわかっていなかったのだった。




