6.宴を見下ろして
外から貧乏の臭いがする。
あからさまに顔を歪めながら、愛比売命は窓の外を睨んだ。
障子窓の外側に赤々と色づく紅葉が見え、大変計算された造りの客室だ。目の前に並べられた海鮮中心の料理も美しく、とても魅力的だと思う。
愛比売命にとって瀬戸内海の魚介など食べ慣れているが、やはり、宿屋で旅気分に浸りながらというのは空気が違う。
「部屋も料理も一級品。サービスも悪くないし、従業員の器量もあります。行き届いた良い宿ですね……客以外は」
愛比売命は目の前に座った稲荷神にそう言いながらも、不満げに目線を窓の外へずらした。
「うちの巫女が迷惑をかけたな」
「いえ、貴方の巫女は良き巫女です。商売人として、客を分け隔てなく扱い最高のサービスを提供する。此れは評価すべき美点です。誇りなさい」
「ならば、有難く言葉を受け止めよう」
愛比売命の返答を予測していたのか、シロは軽く唇の端を釣り上げた。
「随分と巫女を気に入っているようですね」
貧乏神に難色を示すのは愛比売命と同じようだが、シロは自分の巫女を高く評価していることがわかった。あの巫女ならば、上手くやれるという自信があるのだろう。
人に対して、随分と入れ込んでいる。
愛比売命には、そのように映った。
「あれは儂の巫女だからな。供物のようなものだ」
「……自覚はないですか」
シロが怪訝そうに表情を歪める。
こいつ、さては阿呆ですか? 愛比売命は溜息をつきつつも、言葉の意味は教えないことにしておいた。放っておいても良い気がしたからだ。
「まあ、酒でも飲まれよ。石鎚の限定大吟醸が入っておる。儂のお気に入りだぞ」
「嗚呼、それ。たまに奉納されますね。確かに良い酒です。なんでも、賞を受賞したとか……神は人の上に立つものですが、彼らの創造力には感嘆するばかりです。特に、この国の人々は食に関しては手を抜かない……ま、まあ。それは、吾らが土地に恵みを与えているからなのですけれどね!」
「そなたは、相変わらずというか……そこまで気張るな」
「なんのことでしょう?」
詳しいことはわからないが、高い酒は美味いという言葉もある。
愛比売命はシロから日本酒の入ったおちょこを受け取った。
「きゃー! 九十九ちゃん! そんなことしちゃ駄目だってばぁ!」
なにやら、外が騒がしくなってきた。
気づけば貧乏の臭い以外にも、肉や魚の焼ける香ばしい匂いも立ち上がっている。否、それ以上に……人の匂いがした。
庭の方に何人かが集まっている?
「肩肘張らなくとも、良いのではないか? お椿さん」
「う……そのような俗称で吾を呼ばないでください。吾には、愛比売命という名がきちんとあります」
「お椿さんの方が言いやすいではないか。せっかく、羽を伸ばしに来たのだ。ゆるりとすれば良かろう」
「でも、一応は神の威厳と言うものが、ですね」
椿さんとは、椿神社の愛称のようなものだ。
地元の人間はたいてい、愛比売命が祀られている椿神社のことを「椿さん」とか「お椿さん」と呼んでいる。椿は松山市の市花にもなっており、人々に親しまれる良き神の証ではあるが……自分には愛比売命という名があるという自負もあった。
何故だ。胸がウズウズした。
庭を覗き込んではいけない。しかし、愛比売命は欲求に抗うのが難しく感じた。
「ちょっとだけ……」
なにをしているのだろう。
愛比売命は窓枠にそっと近づいて、手をかけた。その様子を後ろでシロがニヤニヤと見つめているのを感じながら。
「あらあら……飲ませすぎちゃいましたか?」
「天照様、わざとだったんですか!?」
「……ふふ」
そこはバーベキュー会場だった。
楽しそうな声。
湯築屋の従業員だろうか。人がワイワイと集まって炭火の網を囲っている。網の上にはこんがり良い焼き色の肉や魚、ぐつぐつと煮え汁を噴くサザエなどが乗っている。
愛比売命の部屋に運ばれた繊細な食事に比べると、やや大雑把に感じたが、美味しいことは間違いないとわかる。
新鮮なものを焼いてすぐに食べる。これ以上の美食はないし、人間が原子の時代に獲得した初歩的にして至高の調理法だ。
従業員の他にも、客が混ざっている。
中心にるのは貧乏神。なるほど、これは彼を屋内に入れないための措置なのだ。若女将の機転だとすぐにわかった。
他にも天照大神が確認できた。頻繁には宿泊しない愛比売命でも毎回見かける気がする常連客だ。いったい、彼女は何連泊しているのだろう?
それらの連中が集まって、にぎやかに騒ぎ立てていた。
まさに宴。
そう、これは宴の光景だった。
「おいおい、大丈夫かい? 若女将チャン」
貧乏神の隣で赤い顔をしてグテリと寝ているのは、若女将だ。
酒でも飲んだのか、機嫌良さそうにヘラヘラと笑っているように見えた。
「だいじょうぶれふ。びんぼうーがみさま……ふふへ」
そんなことを言いながら、若女将は机の下に潜り込んでしまった。なんの意味があるのか周囲にも、そして、愛比売命にもわからない。
「九十九はなにをしておるのだ……」
後ろから、シロが嘆息していた。
呆れているような素振りだが、あのような若女将を見るのは初めてで困惑しているようにも見える。
「愛比売命よ、儂は今からアレを連れに行こうと思うが、そなたも下へ降りるか?」
「ふぁ!? いや、そうじゃなくて、どうして吾があのような宴になど……楽しそうなどとは、一ミリも思っておりませんよ。ええ、そうです。混ざりたいなんて……」
「後で独りでは行きにくかろう? 儂が連れて行ってやると言っておるのだ」
「…………!」
なんのことでしょう。結構です。
ピシャリと冷静に言うつもりが、舌がもつれてしまった。何故、ここで動揺するのか自分にもわからない。
「好きであろう? 宴」
「ぐ、ぬぅ……」
愛比売命はグギギと歯を軋ませた。
シロとは長い付き合いだ。当然、愛比売命の本質も見抜いている。というか、知っている。
「しかし、吾の威厳と言うものが」
「威厳と言えば、あそこで未成年に酒を飲ませて楽しんでいるアイドルオタクの引き籠りにこそ持ってほしいものだ。まったく……神有月には出雲へ帰れと言うておるのに、またあのような遊びを……」
「確かに、あの方は少し遊びすぎですね」
自由過ぎる天照大神を引き合いに出されると、なんでも許されてしまうような気がしてしまうのが不思議だ。
いや、あれは許しては駄目だろう。
「稲荷の巫女はチョロく引っかかってくれましたのに、鬼の巫女は勘が良くて困りましたわ」
「お酒の匂いがするから、わかりましたよ。ねえ、九十九ちゃん。そんなテーブルの下に潜っちゃ駄目よ。出てきてってば」
「ふへへ……狭いところ、しゅき」
「はは。若女将チャン、面白いねぇ!」
昔は、もう少し威厳があったと思うのだが……否、元からあんな感じか?
愛比売命は庭の様子に呆れつつ、自然と自分が笑みをこぼしていることに気がついた。




