9.そして、未来の形。
シャン、シャン――。
鈴の音が鳴り響く。
客が来館した合図である。湯築屋では、何十年も前から取り入れられている馴染みの光景だ。お客様をお迎えしようと、従業員たちが玄関へそろう。
結界に囲まれた湯築屋は、外界から遮断された空間だ。しかし、外の世界と同じく薄紅の桜が咲き誇り、庭園を彩っていた。
空に輝く星も満月も、まやかしだ。結界の主の裁量一つで出現させられる。それらをながめながら客――宇迦之御魂神はつぶやく。
「ここも、変わったのだわ」
その変化を惜しいと思わず、宇迦之御魂神は湯築屋の玄関を開けた。湯築屋を訪れるのは、いつ以来だろう。もっと頻繁に出入りしていた時期もあるのだけれど、ここのところはその必要がなかった。
「いらっしゃいませ、宇迦之御魂神様」
従業員たちは、笑顔で宇迦之御魂神を出迎えてくれる。
真ん中でお辞儀をしていた女将が頭をあげた。以前は海外営業に勤しみ、ほとんど湯築屋にいなかった女性である。深くしわの刻まれた顔は老いたが、人としての深みが見てとれた。
そのほかは、宇迦之御魂神にとっては新顔ばかりである。
「あら、可愛らしい」
その一人に目を配ると、年端もいかぬの娘が恥ずかしそうに頭をさげた。けれども、その背後から、ぴょこんと狐の尻尾が現れる。
「は、初めまして。イヨと申しますっ……見習いをしております」
話している途中に、右の耳、左の耳と、順にぴょこぴょこ出てきた。イヨはそれに気づいたのか、慌てて両手で耳を隠した。誤魔化すように笑うが、もう遅い。
「お母さんに似たのかしら」
「あ……母をご存じなんですね。今、湯築屋にいないので、また今度伝えておきます」
イヨは照れくさそうに笑いながら、顔を赤くした。彼女の母は、石手寺に狸の開いた料理屋に嫁いだと、手紙をもらったことがある。娘がいるとは知らなかった。
「お客様、いらっしゃいませ」
従業員たちに遅れて現れたのは、黒い装束をまとった神であった。
漆黒の闇を溶かしたかのような髪が滑らかで光沢を放っている。琥珀色の瞳は、宇迦之御魂神譲りだろう。頭のうえには黒い耳、うしろには大きな黒い尻尾が生えていた。目元に引いた朱色の化粧が吊り目を強調している。
「しばらくぶりね、黒陽」
宇迦之御魂神が声をかけると、黒陽は笑みを浮かべた。
「待ちくたびれたよ。三十年は長いんだね」
「これでも、早く来たほうよ。もう神なのだから、すぐに慣れるのだわ」
黒陽が結界の役割を担い、神となってから二十年の月日が経った。宇迦之御魂神には、長い時間が経過したという意識がなかったけれど、黒陽はまだ慣れないらしい。
だが、たしかに彼女が結界の主となってからの月日で、変わったものは多そうだ。
「さあ、ご案内しますよ」
黒陽は湯築屋の主らしく、宇迦之御魂神に客室を示す。いつものお部屋に通してくれるつもりのようだ。
「今日、白夜は? ここに住んでいるのでしょう?」
何気なく問うと、黒陽は首を横にふった。
「おでかけ中。夜には戻ってくるから、ごあいさつすると伝言を聞いてるよ」
「もうっ。私が来るって知っていながら……」
むくれると、黒陽がクスリと笑う。
「許してあげてよ」
「別に、怒ってないわよ。あなたに会えただけでも、充分」
黒陽に案内され、宇迦之御魂神は五光の間へ通される。いつもながら、宇迦之御魂神好みのいい部屋だ。庭をながめながらお風呂に入れるのが粋だった。
宇迦之御魂神は、早速、窓際に腰をおろす。
だが、ふと黒陽をふり返った。
「ねえ、出てきなさいよ」
宇迦之御魂神が呼びかけたのは、黒陽に対してではない。
その裏側にいる神だ。
黒陽はしばらく立ち尽くしていた。が、瞳が紫水晶に変じる。
「急に呼び立てて、何事かの」
天之御中主神は退屈そうに、宇迦之御魂神の前に現れた。それが面白くなくて、宇迦之御魂神は眼前の神を睨みつける。
「予約したのだから、呼び立てられるのはわかっていたでしょうよ」
「まあな」
天之御中主神は、その場に胡座をかく。黒陽の姿で、らしくない姿をされると無性に腹が立った。
「私は、あなたを許していなかった」
結界を勝手に造り替えていたのも、九十九に協力して儀式を執り行ったのも。全部、宇迦之御魂神なりの抗議であった。
騙すような方法でシロに選択を迫っただけではなく、黒陽の命まで奪ってしまった。宇迦之御魂神になんの相談もなく、だ。
それは神の権能を侵害する行為である。
だから、同じことをしてやった。
宇迦之御魂神は国津神。別天津神である天之御中主神には真っ向から敵わない。そもそも、神同士で争うなど不毛だ。彼女の行動を褒めぬ神はいるだろう。
それでも意趣返しがしたかったのだ。
「気を悪くしたかしら?」
「否。そうであれば、あそこまで黙認せぬ」
天之御中主神には、当然わかっていただろう。結界の造りが変われば、シロはともかく、この神は誤魔化せない。
それどころか……都合よく、九十九に神気を引き寄せる力が発現したのも、天之御中主神の差し金かもしれなかった。九十九の神気は人間にしては上質で強い。だが、新たな特性が発現するなど、あまり例のないことである。
結局、天之御中主神は全部わかったうえだった。
この神には、シロを束縛し続ける気がなかったのだろう。
「あなたなりに、白夜を想った選択を示したのでしょうけど……一歩足りないのよ。だから、憎まれるの。そういうところなのだわ」
「そういうものかの……」
天之御中主神は珍しく目を伏せる。反省しているつもりなのだろうか。黒陽の姿をしているのに、ちっとも可愛らしく感じられない。
宇迦之御魂神は唇を曲げた。
やっぱり、この神は好きになれない。
しかし、悪意ある邪神ではないことも知っていた。




