8.未来に向けて。
『ありがとう』
黒陽はそう述べて、九十九たちの前に歩み出た。
だが、シロは目を伏せて膝を折る。黒陽と目線をあわせて、頭に手を伸ばした。
「礼を言われる謂れはない……儂は、お前を」
シロの過ちによって、黒陽は命を絶たれている。四国に住む多くの狐たちも、同様に犠牲となった。
月子の命を救って摂理を曲げた代償は、命でしか贖えない。選択したとき、シロはその意味を知らなかっただろう。あんなことになると知っていれば、別の選択をしたかもしれない。
だが、選択は変えられない。命は戻らない。ここにいる黒陽も、かつて失われた片割れとは別の存在だ。
それでも、シロは謝罪したかったのだろう。
シロの表情に悲壮感はない。むしろ、穏やかな面持ちであるように、九十九には思えた。
ずっと言えなかった謝罪ができて、シロの心も救われたようだ。
『いいえ。私は感謝してる』
黒陽は首をふって目を閉じた。
『再び生まれてこられて、嬉しい。九十九と白夜、どちらが欠けていても、私はこの世に存在し得なかった』
黒陽はふたりに頭を垂れる。
シロがいなければ存在できず、九十九がいなければ分離できなかった。なにかをしたという自覚はなかったけれど、積み重なった奇跡のようで、黒陽を見ているだけで安宅かくなれる。
『だから、私が白夜の代わりになる』
「代わり……?」
申し出の意味がわからず、九十九が聞き返してしまう。
『白夜の代わりに、結界の役を担うよ』
けれども、シロが首を横にふった。
黒陽はシロの代わりに結界の檻となろうと言うのだ。そうすれば、シロが役目を離れても、結界は維持される。
湯築屋がなくならずに済む。
「それは、ならぬ。これは、儂の――」
『あなたは、もう充分罰を受けた』
黒陽はシロの身体に前脚を置いた。そして、その頬を優しく舐める。
まるで、赦しを与えるかのように。
シロはずっと、自らを許してこなかった。
許せずに、辛くて、苦しくて……永い刻の中で、後悔ばかりしていた。
「儂は……」
シロの頬に、一筋の涙が流れる。
九十九はシロの涙を初めて見た。しかし、悲しみではなく、黒陽に許された救いの涙なのだと理解できた。
「シロ様」
九十九はシロの頬にハンカチを当てて、涙を拭う。シロはその手を包むようににぎって、九十九を自分のほうへ引き寄せた。
「情けないところを見せた」
いまさら、なにを格好つけているのだろう。九十九は急におかしくなって、笑みを浮かべた。
「シロ様が残念で情けないのは、まあまあいつものことですけど」
「なんと」
シロは不服を口にするが、顔は冗談っぽく笑っていた。
空気が和み、気が抜けてくる。
「湯築九十九」
宇迦之御魂神は、改めて九十九を呼ぶ。お客様から、そんな風に名前を呼ばれたことがないので、なんだかむず痒い。
「白夜をおねがい」
九十九の力で、シロを結界から引き離せということだ。シロの代わりには、黒陽が就く。
「でも、わたし……今、神気がそんなに……」
ここへ来るまでに、ずいぶんと消耗してしまった。お袖さんの変化術が影響しているのだろう。もう立っているのでやっとであった。
だが、宇迦之御魂神は腰に手を当て、手草を向けてくる。
「目の前の夫から、ちょっと分けてもらいなさいな」
急に大雑把なことを言いはじめるので、九十九は困惑した。
これからシロは結界から離れるのだ。神気を分けてもらって、大丈夫だろうか。
「でも、シロ様からいただくのは……」
「なるほど、そうしよう」
尻込みする九十九など置いて、シロまで納得してしまった。こうなってしまうと、誰も反対できない。
「九十九」
シロは九十九の頬に手を当てる。長くて綺麗な指で急に触られると、身体がビクリと強張ってしまう。
指先が顎へと移動して、九十九の視線が持ちあげられる。
シロとの距離が縮まって、息づかいまで聞こえてきた。
「え? シロ様?」
今の話の流れで、どうしてこの距離になるのだろう。これは、間違いなくアレの流れ。宇迦之御魂神たちも見ているのに?
九十九は戸惑ったが、シロは意に介していない。宇迦之御魂神も、にこにこと成りゆきを見守っている。
ええい、どうにでもなれ。
九十九は目を閉じた。
その瞬間に、シロとの距離がゼロになる。
やわらかな唇を通じて、温かな神気が身体に流れ込んできた。心臓の脈打つ音にあわせて、力が身体を巡っていく感覚。
九十九は白い肌守りをにぎりしめる。
薄くまぶたを開けると、辺りが真っ白な光で包まれていた。しばらくもしないうちに、景色が塗りつぶされて更新されていく――。




