6.答えは、もうここにある。
夕方近くなると、道後温泉街の色合いは変わる。
昼間は明るく人の多い観光地だ。けれども、暗くなってくるとガス灯を模した街灯に、やわらかな明かりがつく。飛鳥乃湯泉や、放生園のカラクリ時計、道後公園のオブジェがライトアップされ、別の趣が漂いはじめていた。
人が減る代わりに、各宿泊施設の浴衣を身にまとった客たちが出歩くのも情緒がある。
九十九は道後温泉本館の屋根に止まった。
本館は、改修工事中だ。古くなった屋根瓦は、新しいものへ取り替えられている。しかし、古い瓦も使えるものは残されていた。緑青を帯びていた銅板も一新され、赤い色がキラキラと夕陽に輝いている。
改修前とは印象が変わる部分も大いにあるだろう。保存工事とはいえ、新しい部分はやっぱり目立つ。古めかしい本館のイメージを惜しむ声も、たしかにある。
けれども、また歴史と共に歩むものだ。歳月を経て、別の顔を見せてくれるのだと思うと、今から楽しみでもある。
本館の屋根から、九十九は辺りを見回した。貧乏神から言われて来たけれど、黒陽は現れるのだろうか。
「あ!」
しかし、杞憂だった。
屋根に止まっている九十九を、黒い狐が見あげている。まるで、こっちへ来いと言っているかのようだ。
九十九は素早く飛び立ち、黒陽の前におりる。
「黒陽」
九十九は黒陽を呼びながら、アスファルトに着地した。
黒陽はすぐに逃げず、九十九と見つめあっている。
「あなたは、本当に黒陽なんですか?」
『…………』
黒陽は、ここにいるはずがない。最初は夢に出てきたので、九十九が創り出したものだと思っていた。だが、今現実に黒陽は存在している。スマホにも影が写っていた。
この現象は、どう説明されるのだろう。九十九はそれが知りたい。
「生きていたんですか?」
『…………』
黒陽は黙したまま、九十九の問いを聞いていた。
逃げもせず、答えもしない。
けれども、やがて九十九に尻尾を向けた。
『捕まえて』
黒陽はそれだけを言って、九十九の前から去った。
九十九は追いかけようと羽を広げる。けれども、急に身体が重くなる感覚があった。
身体の周りから、白い煙が立ち込めはじめる。ハラリと頭から落ちたのは、お袖さんがのせてくれた葉っぱだ。翼は両手に変わり、九十九は人間の姿へと戻ってしまった。
お袖さんが施した変化の術が解けたのだ。
人間の姿で地面を歩くと、また感覚が違う。さっきまで、鳥だったせいで足がもつれて転びそうになった。
九十九はよろめきながら、細い坂道をのぼっていく。道後温泉本館の裏手から、上人坂へと延びていく道だ。
「待って……!」
九十九は黒陽に呼びかけるけれども、待ってはくれない。本当に捕まえるまで、会話することすらできないようだ。
しかし、今のままではイタチごっこである。
「大丈夫かしら?」
よろよろと歩く九十九の姿が目に留まったようだ。
坂の途中に位置する圓満寺から、火除け地蔵が出てきた。
火除け地蔵は、仏堂に鎮座する大きなお地蔵様だ。湯の大地蔵尊とも呼ばれ、奈良時代の僧侶・行基が彫ったとされる。
古くから火除けの地蔵と親しまれており、その名が転じて浮気防止や夫婦円満の御利益が信じられている。
見目は麗しい淑女のようだが、背丈が高く肩幅も張っていて、声も太い。性別の概念がないお地蔵様らしい見目、というよりは、女装した男性という風貌であった。
「火除け地蔵様……」
「顔色がとっても悪いわ。少し休んでいきなさい」
そんなに顔色がよくないのだろうか。火除け地蔵は、心配そうに九十九の身体を支えた。
「いえ、平気です」
九十九は火除け地蔵の手を振り解いて、坂のうえを見据えた。
だが、やはり足がもつれて、上手く歩けない。呆気なく、火除け地蔵のたくましい腕に倒れ込んでしまった。
「宿に連絡して迎えにきてもらいましょ」
「でも、今追わないと……」
見失えば、また一からやりなおしだ。
だが、火除け地蔵は九十九を行かせようとはしなかった。
「無理をしなくちゃいけないことなの?」
そこには、本当に九十九を案じる表情が浮かんでいた。そして、無理をしようとしている九十九を叱っている色も見てとれる。
「今のまま追いかけても、絶対に捕まらないわよ」
火除け地蔵は、そう言って九十九の肩を強く押さえつける。
「え……火除け地蔵様、知っているんですか……?」
言い回しが引っかかって、九十九はつい聞き返した。九十九は火除け地蔵に、まだ事情を話していない。
「実はね。さっき、燈火ちゃんから連絡もらって」
火除け地蔵は、スマホを見せながらウインクした。どうやら、いつの間にか燈火と連絡先を交換していたらしい。最近は、神様もスマホを持っているケースが増えた。そして、圓満寺はフォトジェニックなスポットで女性に人気が高く、燈火もお気に入りだ。
燈火は、協力できるところへは、みんな連絡してくれたようだ。本来なら、九十九がやらなければいけないのに……今日はそこに思い至ることができなかった。燈火の成長に、九十九は舌を巻く。
「絶対に捕まらないって……?」
「そのままの意味よ。今のあなたには、むずかしいわ」
九十九の問いに、火除け地蔵は当然のように答える。肩にかかった長い髪を振り払い、九十九を真正面から視線で射貫く。
「だって、あなたのねがいが決まっていないもの。ねがいのない者に、光はつかめない」
九十九は口を半開きにしてしまった。
黒陽を追いかけることばかり考えていたが、ここで最初の問題に立ち返る。
九十九は、なにをねがえばいいのだろう。
「追っても捕まらないのは、あなたにねがいがないから。あなたの望みは、なに?」
「わたしの……」
わたしの、望み。
九十九の頭は空っぽだった。ねがいを考えなければいけないのに、すぐにはなにも浮かんでこない。
しかし、しばらく頭を空っぽにしていると、沸々と胸の奥から湧き出る感情があった。その感情に名前をつけることができなくて、九十九は口をぱくぱくと、開けたり閉じたりしてしまう。
そんな九十九を、火除け地蔵は優しげに仏堂へ導く。大きな木造のお地蔵様が見守る前に、九十九を座らせた。
「落ちついて。あなたは、たぶんわかっているから」
火除け地蔵は、九十九の肩をなでながら優しく言い聞かせる。そんなことを言われたって、九十九には答えがわからない。黒陽も、遠くへ逃げてしまったかもしれない。
途方に暮れて視線をあげると、鮮やかな色が目に入った。
圓満寺の名物として、仏堂の入り口に吊してある色とりどりのお結び玉だ。恋のねがいを書いて結んでおくと、成就するというものだった。玉飾りは、道後温泉のシンボル「湯の玉」をイメージしている。
数々のねがいが結ばれ、鮮やかなカーテンのようになっていた。写真映えするスポットとして、若い女性に人気がある。九十九はこの場所を、燈火にも案内したことがあった。
九十九は無心で立ちあがり、一歩一歩、お結び玉に向かって歩く。
たしか……。
圓満寺には、多くの観光客が訪れる。次から次へと増えるお結び玉は、数え切れないだろう。
しかし、その中から、九十九は黄色のお結び玉を手で分けて探した。一つひとつ、ねがいを確認していく。
「あ……」
しばらくすると、見覚えのある字を見つけ出す。
シロ様と幸せになれますように。
九十九が結んだ玉だ。
油性ペンで、「シロ様が幸せになれますように」と書いたあと、一字書きなおした。そのあとも、ずっと胸に刻んでいたはずの言葉でもある。
見つけた瞬間、九十九は膝から崩れるように、その場に座り込んでしまう。身体から力が抜けて、立ちあがる気力が起きない。
九十九のねがいは、決まっていたはずだ。
シロと一緒に幸せになりたい。
どちらか一方ではなく、お互いが笑っていられる未来を望んでいる。
改めて自覚した途端、天之御中主神の選択が目の前に立ちはだかった。
シロを檻の役目から解放し、九十九と同じ時を過ごすか。
だが、その選択をすれば湯築屋の結界は維持されない。永い歴史を持つ湯築屋を、九十九の決断で終わらせなければならなかった。
シロの自由か、湯築屋か。
選ぶのは、シロだ。
けれども……。
九十九は――シロと一緒にいたい。
同じときを過ごし、同じ景色を見て、同じ場所で笑っていたかった。
でも、そんなのワガママだ。九十九の身勝手で湯築屋を潰したくはない。
今日だって、お袖さんや貧乏神、火除け地蔵にお世話になった。儀式にだって、たくさんの神様が来てくれた。
こんなに神様から助けられているのに、湯築屋を失わせるわけにはいかない。
シロがどんな未来を選んでも、九十九は受け入れるつもりでいる。だけど、そこにシロや九十九の幸せがあるのだろうか。
なにかを得るためには、犠牲が必要だ。きっと、そう。
しかし、それは……九十九の望みではない。




