3.黒陽を追って。
外へ出ると、乾いた風が頬をなでる。冷たいけれど、空は晴れていて気持ちのいい天気であった。
もうすぐ試験期間だ。高校までのテストとは勝手が違って戸惑うばかりだが、前期の試験で要領はつかめてきた。後期はレポート課題も多いので、コツコツとこなさなければ、授業の単位を落とす。
「あれ」
キャンパス内を歩いていると、視界の端を黒い影が横切る。
最初は野良犬かと思った。けれども、すぐに違うと悟る。
「黒陽……!」
大学のキャンパスに現れたのは、黒い狐であった。
九十九が名を呼ぶと、黒陽はこちらに向かって歩いてくる。
「どしたん、ゆず?」
「九十九さん?」
一緒にいた京と燈火が心配そうにする。二人には、黒陽の姿は見えていないようだ。
九十九は、どう説明しようかと迷う。
「えっと……」
戸惑っている間に、黒陽は九十九の前へと近づいた。
ずっと逃げていくばかりだったので、真正面から目があってドキリとする。
シロ様と、同じ瞳の色……。
『叶えてあげる』
「え?」
清らかに澄んだ大人の女性の声がする。口は動いておらず、頭の中に直接語りかけてくるようだった。
黒陽に話しかけられるのが初めてで、九十九は言葉に詰まってしまう。
『私を捕まえて』
捕まえる?
九十九が疑問に思っていると、黒陽はわずかに目を細めた。笑っているみたいに、優しく穏やかな表情だ。
『私を捕まえれば、あなたのねがいを叶えてあげる』
黒陽はそれだけ言って、九十九に背を向けた。
「ああ! ちょっと待って……!」
九十九は声をあげるが、黒陽は構わず走り去ってしまう。
どうしよう。
とっさに、京と燈火をふり返った。二人とも、なにが起こったのかわからず、ポカンと九十九を見ている。
黒陽について説明するのは時間がかかるし、シロの秘密に触れてしまう。けれども、早く行かなければ、黒陽に逃げられる。
「ゆづ、うちらなにしたらええん?」
「九十九さんの妖怪退治、また見られるの!?」
困惑している九十九に、二人が詰め寄った。どうやら、急いでいるのだけは伝わったらしい。妖怪退治はしないけど。
「二人とも」
細かい説明はいいから、先に動け。京はそう言いたげに、九十九の肩を押した。
九十九はとりあえず、走り出す。
「黒い狐を追わなきゃいけないの!」
京と燈火も、九十九のあとについて走った。
「それ、ゆづには見えとるん?」
「うん!」
黒陽は長い尻尾をふりながら、キャンパスの外へと駆けていった。九十九も追って、キャンパスから道路へ出る。
少しうしろから、スマホのシャッターを押す音が聞こえた。
「あ、ゆづ! うちにも見えた!」
京が声をあげながら、今撮った写真を示した。
少々ブレているが、大学の外の風景が写っている。その中に、ぼんやりとした黒い靄がかかっており……黒陽が走った位置と一致した。
「すごい、京」
「心霊番組でやっとったんよ。見えない幽霊が写るかもって」
それはアレでは。心霊写真というやつでは。
神様や妖と日常的に接しているのに、幽霊だけは苦手だ。九十九は顔を引きつらせたが、とにかく役に立ちそうなので、サラッと聞き流す。
黒陽の足は速く、九十九たちはどんどん引き離されてしまった。もともと、動物と人間では身体能力が違う。
「はあ……はあ……」
そのうち、黒陽の姿を見失う。
週一回、体育の授業はあるものの、九十九たちは運動部ではない。体力にも限界があり、三人の足は止まってしまった。
「ど、どうしよう……探さなきゃ」
九十九は白い肌守りをとり出す。大山祇神の試練を乗り越えたときのように、黒陽の神気を追えないだろうか。
念じると、以前よりも素早く結晶が作れた。それを透明な羽根に変えて、九十九は宙にかざしてみる。
けれども……羽根はなにも反応しなかった。いや、正確には方向を示すのだが、くるくると回って落ちてしまう。
まだ九十九は神気を自由自在には操れない。動きが素早い黒陽に、羽根がついていけていないのだ。
これでは、探せない。
スマホのカメラに写るとはいえ、どこへ行ったかわからない黒陽を探すのは骨が折れる。闇雲に探すにも、人数が必要だった。
「も、も、もしもし……!」
しかし、最初に動いたのは燈火だった。
素早くスマホで、どこかに電話をかけている。
「朝倉さん、で、ですかッ!」
燈火が電話しているのは、小夜子のようだ。要領を得ない口調で、燈火は小夜子に経緯を説明して、応援要請をしていた。
小夜子はこの近くにある看護師の専門学校に通っている。たしかに、協力してくれるとありがたい。
燈火は人見知りで口下手なところがある。違う学校に通っている小夜子に、積極的に連絡をとるのが九十九には意外だった。
知らないところで、友達になれていたようだ。それが嬉しくて、頼もしくもあった。
「うちも、刑部に連絡すらい」
京も、スマホのメッセージアプリを起動させていた。
九十九のために、二人とも協力してくれる……考えるだけで、元気が出る。
「手分けしたほうがいいと思う。うちは、あっち行くけん……ゆづと種田は、向こうをおねがい!」
京はスマホを片手に走っていく。
燈火もうなずいて、反対方向へと向かった。
九十九だけ立ち止まるわけにはいかない。
「わたしの、ねがい……」
突発的に黒陽を追いかけているが、そこだけが九十九の胸に引っかかる。
九十九は黒陽に、なにをねがえばいいのだろう。
天之御中主神の選択ばかりを考えていて、自分のねがいなんて頭になかった。
黒陽が捕まれば、答えが見つかるだろうか。
夢に出てくるようになった謎もあるし、とにかく、今は黒陽と話したい。
九十九は軽いとは言えぬ足を、足を前に踏み出した。




