8.愚かな行為。
夢で月子に会ってから、少し身体が動くようになった。
気がかりが晴れたわけではない。だが、天之御中主神の真意が判明したのは、大きかった。
自分がなにをすべきか、わかった気がする。
九十九は枕元に置かれていた蜜柑を二つ食べて、支度をはじめた。まだ消耗した神気が回復しておらず、身体が本調子ではない。あまり動けないけれど、動かずにはいられなかった。
「どうかされましたか、若女将?」
動きやすい私服に着替えて母屋を出ると、すぐに声がかけられた。
ふり返るまでもなく、天照だとわかる。九十九は、またガールズトークに持ち込まれるのではないかと身構えた。
「大丈夫です。今日はやめておきますわ」
天照は九十九の危惧を察したのか、優雅に笑ってみせた。「今日は」ということは、きっと、後日尋問されるのだろうけど。
「みなさま、心配しておりましたよ。しばらくお休みにしていたほうがいいのでは?」
急に九十九が神気を消耗して運ばれたので、騒ぎになったのだという。当然か。九十九は寝ていたので知らなかっただけだ。枕元に置かれた蜜柑や、代わる代わるに飲み物やお粥を持ってきてくれる従業員からも察していた。
「休んでいるよりも、動いているほうが性にあうんです」
九十九の返答に、天照はちょっと意地悪に微笑んだ。
彼女には、天之御中主神の提示した選択も、その意図も、すべてわかっているようだった。
「思い悩むあなたの姿は美しいのに」
冗談ではなさそうな響きだ。けれども、本気だとも思っていない。
「でも、そうやって動こうとするあなたの姿も、輝かしいのですわ」
天照は、いつだって九十九の人間らしさを肯定してくれる。思い悩んだり、迷いを払拭したり、そうやって回り道をしながら歩く姿を、輝かしいと称していた。
「わたし、今まで……お客様のご要望には全力で応えてきました。でも……今、シロ様にはなにもしてあげられない……」
選択の重荷を背負うのは、九十九ではなくシロ。
こんなときに、九十九はシロの役に立てない。
シロのために、なにもしてあげられない。
でも、それでいいはずがないのだ。
「だから、シロ様がなにを選んでもいいようにしたいんです」
「と、言いますと?」
天照が首を傾げるので、九十九はにっこりと笑みを返した。
「もしも、シロ様が湯築屋を選んだとき……わたしは、シロ様のそばにいられません。だから、寂しくないようにしたいんです」
なにをやっても、シロの孤独は埋まらないかもしれない。月子を失ったときのように、九十九を求めて永い時間を過ごすことになるだろう。
でも、九十九が残せるものは、遺したい。
九十九はコートのうえから、マフラーを巻いた。ショルダーバッグを肩にかけ、おでかけの支度を調える。
うなじで、ポニーテールの毛先がぴょんぴょん跳ねた。
「便箋と封筒を買ってきます。できるだけ、たくさん」
天照に見守られながら、九十九はスニーカーに足を入れる。踵を踏んでしまったので、トントンッとつま先を叩いて整えた。
「シロ様に手紙を書くんです。できるだけ、たくさん。毎日読んでも飽きないように」
そう言った瞬間、天照はポカンと口を開けた。こんなに間が抜けた顔をする彼女を、九十九は初めて見る。
一拍置いて、天照は小さく噴き出した。
「おもしろいことをなさいますね」
笑っているけれど、小馬鹿にしているわけではない。天照は至極面白そうに、笑い声をあげた。
「いったい、何通書くおつもりですか?」
「何通でも。とにかく、たくさんです。一日、三通ノルマで書いたとして……えっと、八十歳まで続ける計算だと……うーん……六万六千通ほど。毎日、一通ずつ読んでもらったら、一八十年くらいは持ちますよね」
九十九は真面目にスマホの電卓を叩きながら考えた。すると、天照はさらに笑い声を大きくする。
「本当に、毎日なさるおつもりですか?」
「わたしは本気ですよ」
「余計に、稲荷神が寂しくなるとは思わないのかしら?」
「そうなるかもしれません。でも……なにも遺さないよりは、いいんじゃないかと思ったんです」
九十九なりに考えた結果だった。
幼稚で馬鹿馬鹿しいだろう。それでも、これが九十九にできることだと思った。
「稲荷神は、あなたを選ぶかもしれませんよ?」
「そうかもしれませんね」
どちらを選んでも、悔いてほしくない。
これが九十九の気持ちだった。
天照は瞳をキラキラと輝かせながら、九十九の顔をのぞき込む。興味深いとでも言いたげだ。そして、彼女の求める輝かしさでもあったのだろう。
「愚かですね」
「わかってます」
断言されても、傷つかない。
しかし天照は、ふと笑みを消す。その瞬間、感情の波が凪いだように、すっとおさまるのがわかった。
「もっと、強欲でもいいのに」
「え?」
今度は、天照の意図がわからなかった。
九十九は、充分にワガママだ。今だって、シロの自由も、湯築屋も両方欲しいと思っている。でも、天之御中主神の巫女として永遠を生きるのは嫌だ。
シロも九十九も、ふたりで幸せになりたい。
充分にワガママだった。
でも……選ばなければならない。
「あなたなら、すぐにわかると思っていますよ」
天照は九十九の頬に手を触れて囁いた。
九十九は目を見開きながら、天照を見つめ返す。
「天照様には、未来がわかっているんですか?」
「いいえ。予測はできますが、未来視の力はありません。神は無駄に永く生きているだけ。全能ではないのよ」
「だったら……」
「でも、わかる。あなたなら、大丈夫」
いつもよりも断定的な口調であった。
天照は木漏れ日のような表情で、九十九をなでる。
「好きにやってみなさい」
天照が手を貸すことはない。九十九の思うがままにやればいい。そう言って、背中を押されている気がした。
天照の言う強欲の意味は判然としないけれど、否定もされていないようだ。
「大丈夫ですよ。さあ、いってらっしゃい」
もう一度言って、天照は九十九を見送った。
天照は九十九をいつも見守っている。常に俯瞰した位置で、九十九のあとを押しをしてくれた。直接、手を貸して行動を起こしたのは、湯築屋の中に天岩戸を出現させたときだけだ。
今回も、彼女は見守るのだろう。
九十九は……天照の期待に応えられのだろうか。




