6.選択。
でも……。
「シロ様の結果が消えたら、湯築屋も……なくなってしまうんですよね?」
シロが神様ではなくなり、結界の力が消滅れば……湯築屋は消える。婚姻の儀で見た夢が現実となるだろう。
それが幸福な未来であると、九十九には断言できなかった。
ずっと続いてきた湯築屋が終わる。
シロが大切にしてきた場所が。
九十九の大好きな日常が。
なくなってもいいはずがない。従業員たちがいて、お客様に囲まれて……この日常がなくなるなんて、九十九には耐えられない。
『であれば、結界は残すか?』
結界を残せば、湯築屋は消えない。
シロは神様として、湯築屋に存在し続けるだろう。
だけど……湯築屋が受け継がれる未来。あの夢で見たシロの顔が、九十九の頭を離れなかった。
どうしようもなく寂しげに、遠くを見つめる瞳。そこではないどこか、いや、誰か別の人を探していた。
あの未来におけるシロは本当に幸福なのだろうか。
シロと天之御中主神が上手くいったとしても――九十九は、シロを置いていく。かつてのシロが月子を追い求めたように、今度は九十九を……。
そんな未来を暗示させる夢だった。
無限に連鎖するだけではないか。
『結界が消えれば、其方らは共に生きられる。我は枷を失い、各地を再び彷徨うこととなるが、それもまた悪くはなかろうよ』
天之御中主神の言葉はいつになく多かった。
『宿が消滅するとはいえ、中の人間たちは追い出されるだけで、命は繋がる。新たな生活というのは、人にとっては当たり前の営みではないのか?』
天之御中主神の指摘どおりだ。
湯築屋という場所はなくなるが、誰かが消えるわけではない。お客様たちは別の溜まり場を探すだろうし、従業員も現実の世界で暮らしていける。結界はなくとも、似たような宿屋を開くという選択だってあるだろう。
最初は悲しいかもしれないけれど、きっと立ちなおれるはずだ。
人とは、そういう強さがある。
だけど……。
宴席で楽しそうにする神様たちの姿が頭から離れない。九十九はあの光景を壊してしまいたくはなかった。
「九十九」
シロが九十九の肩に手を置いた。
いつの間にか、震えていたようだ。
九十九はこの場の調停役である。冷静さを失ってしまうのはよくない。
一度、目を閉じて深呼吸した。だんだん思考がクリアになっていく。
「わたしは……」
それでも、提示された二つの選択肢は、九十九にとっては重い。
九十九が見た二つの未来は、どちらにも喪失が伴っており、誰もが幸せとは言い難い。選ぶことによって、必ずあきらめるものがある。
シロの自由か。
湯築屋か。
そんな選択を、今ここでするのは無理だ。
シロを見あげると、むずかしい顔を浮かべるばかり。
『まあ、考えておくとよい』
天之御中主神は、そう言って翼をはためかせた。
神が飛び立つと、瞬く間に身体が白鷺へと変化する。白い羽根を数枚残して、天之御中主神は去ってしまった。
九十九は追おうとするけれど、なんと声をかけてよいかわからない。
気がつくと、月子の姿もなかった。
そのすぐあとで、強い目眩が襲って、九十九の足元が覚束なくなる。
「あ……」
夢が消えてしまったのだ。
九十九の創り出した空間から、シロの結界に戻ってきたとはっきりわかる。入るときは無意識だったのに、今は感覚が如実にある。
倒れそうな九十九の身体を、シロが支えてくれた。
力を使いすぎたみたいだ。身体が消耗しているのがわかり、九十九はぐったりとシロに寄りかかってしまう。
「九十九」
シロはごく自然な動作で、九十九を抱きあげた。九十九もされるがままに、シロの腕におさまる。
「シロ様……ごめんなさい」
天之御中主神と対話をしてほしい。そうねがったのは九十九だ。
なのに、なにもできなかった。新しい選択を提示され、それさえ選べず、シロを困らせてしまう結果となった。
「否。九十九は悪くない。悪いのは――」
シロは暗い顔で、九十九を抱きしめる手に力を込めた。力強くて嬉しいはずなのに、まったく喜べない。
「少し眠るといい」
そう言われると、九十九のまぶたが重くさがってきた。今まで、夢の中だったのに。不思議なものだ。きっと、厳密には睡眠ではなかったのだろう。
「あ……」
意識を手放す直前、虚無の空間を横切る影があった。
黒陽だ。九十九のほうを見つめたあと、再びどこかに向かって走っていく。
もう、夢から醒めたはずなのに……。
「シロ様……あれを」
九十九はシロに知らせようと、懸命に指し示した。
「どうした? 九十九?」
けれども、シロには伝わらなかったようだ。
いや……見えていない?
あの黒陽は、九十九にしか見えないのだろうか。
考えているうちに、意識が深い眠りの沼へと沈んでいった。




