5.答えあわせ。
「あれ」
九十九は違和感に気づき、顔をしかめた。
結界の神気に……歪みができる。
強固な湯築屋の結界が揺らぐことはないが、たしかに空間における神気の一部に歪みが生じていた。
結界内に天岩戸が出現したときに、状況が近そうだ。
湯築屋の結界の中に、別の空間が出現している?
「…………!」
九十九が戸惑っていると、背後で物音がする。
鳥の降り立つ羽音。風を受けながら翼をたたむ音だ。
「天之御中主神様」
さっと顧みると、真っ白な白鷺がいた。細い足で立ち、九十九を見据えている。鳥類の表情はわかりにくいが、どことなく面持ちは笑っている気がした。
『宇迦之御魂神の入れ知恵かの?』
「?」
天之御中主神の言っている意図が読めず、九十九は眉根を寄せた。けれども、天之御中主神に解説する気はなさそうだ。
「そういうところが、〝足りていない〟んですけど」
九十九が呆れて息をつくと、天之御中主神は小首を傾げた。
本当に、この神様ときたら。
天之御中主神が翼を広げる。すると、一瞬のうちに白鷺が人の姿へと変じていった。背中に白い翼を持った美しい神様だ。
墨色の長い髪が肩から落ちる。九十九を見つめる双眸は、紫水晶を思わせた。綺麗なのに感情が読みにくい。人の形をしているけれど、まったく別の存在であると、すぐに理解させられてしまう。
「九十九」
ふと、九十九の隣に風が吹く。
次の刹那、九十九の肩は力強い腕に抱き寄せられていた。九十九はとっさに声を出せず、身体を縮こまらせる。
どこから現れたのか、シロは九十九を抱きしめて天之御中主神を睨みつけていた。
「シロ様?」
その顔を見た瞬間、安心して身体の力が抜けていく。九十九はへなへなと、シロの胸に寄りかかってしまった。
「来てくれなかったら、どうしようと思っていました……」
つい本音を漏らすと、シロは怪訝そうな顔を作った。
「儂はいつも通り九十九に呼ばれて、すぐに来たのだが」
「え?」
九十九が呼んでも、シロは来なかった。名前をつぶやいてから現在まで、なかなか時間が経っていたように思う。ラグがあったのだろうか。不思議な時間差であった。
『此処は、其方の夢だからの』
答えたのは天之御中主神だった。
九十九はピンと来ない。夢? 九十九は、いつの間にか眠っていたのだろうか。ずっと走っていたのに?
「九十九の力で、儂とアレを夢に引き入れたのだ」
神気を引き寄せる力だ。それによって、シロと天之御中主神を同じ空間に呼んだという。
「わたしが弓の弦を引いたから」
「左様」
「でも、夢の中って……」
「おかしいと思った瞬間は、なかったか?」
シロに問われて、九十九は考える。
急に見た白昼夢……あれは覚めたはずだ。
けれども、そのあとに、いくつか不可解な部分はあった。
夢でしか見ていないはずの黒陽が目前に現れたこと。シロが眠ったまま起きなかったこと。シロとの繋がりが強くなったはずなのに、湯築屋の方向がわからなくなったこと……思い当たる節は所々にあった。
「もしかして、最初から夢だったんですか」
気がつかないうちに、九十九は夢を見ていた。
そして、その夢にシロと天之御中主神を引き入れたのだ。
「儀式の成果だ」
九十九は二柱が対話できる場を用意したいというのが、当初からの希望だった。そのために、宇迦之御魂神が儀式を執り行ったのだ。
九十九はシロとの繋がりが強くなったので、自分の夢に二柱を呼び寄せることができるようになった。今までも、天之御中主神が夢に現れることがあったけれど、九十九が呼んでいたわけではない。
宇迦之御魂神が婚姻の儀を執り行った目的がよくわからなかったけれど、このためだったのかと納得させられる。
『それで。其方の望みどおりの形となったわけだが』
天之御中主神は不敵に笑い、九十九をうながした。
司会進行役を求めているらしい。意図がわかっているくせに、意地が悪い。しかし、当人に悪気はないのだろう。
「自覚がないほうが厄介だな」
シロは九十九が言いたかったことを代弁した。
こうして対峙していると、二柱は姿が似ている。けれども、まとう空気や仕草がまったく異なっていると、改めて実感もさせられた。
『我には、その必要がないからの』
天之御中主神は悪びれる様子もなく腕組みした。不毛なやりとりに飽きたとでも言いたげだ。
「え、えーっと……」
九十九はとにかく、場を取り持とうと前に出る。ここは九十九の夢で、彼らを引き入れたのは九十九なのだ。しっかりしなければ。
「私も、見させてもらおうかな」
横から現れたのは、月子であった。
いつの間に。しかし、彼女は巫女の夢に代々住まう思念の存在だ。ここが九十九の夢であるなら、いてもおかしくない。むしろ、「本当にわたしの夢なんだ……」と、九十九の実感に繋がった。
月子は可憐な少女のようにも、美しい淑女のようにも見える笑みで、場をながめている。いつも九十九が夢で会うそのままだ。
「…………」
九十九は……シロを見るのが怖かった。
シロにとって、月子は特別な存在だ。
彼は、どんな顔で月子を見るのだろう。
九十九と婚姻の儀を結びなおしたばかりなのに、シロが月子ばかりを気にしていたらと考えるのが嫌だった。
傲慢だと理解しているが、月子の存在が大きければ大きいほど、シロが遠くなる気がするのだ。
「構わんよ」
傍観する月子に、シロが短く許可を与えた。
九十九は反射的に、シロに視線を向けてしまう。見たくなかったはずなのに。
月子を見つめるシロの瞳からは、懐かしむような、慈しむような感情が読みとれた。きっと、思念としてでも会えて嬉しいのだろう。
けれども、そこに愛情は感じられなかった。
九十九に向ける視線とは、明確に違う。月子を見るシロの目は、愛しい人に対するものではなかった。
不安を覚えていたのが馬鹿みたいだ。
九十九は気を引きしめて、二柱の間に立つ。
「わたし……お二柱に、仲よくしてほしいんです」
もっと言い方があるだろうが、ストレートな表現しかできなかった。取り繕ったところで意味がない。
とはいえ、なにも「それでは、二人で仲なおりの握手をしましょう」とか言って、雑に和解させたいわけではなかった。
ただ、話しあってもらいたい。
シロはずっと天之御中主神を避けていたし、天之御中主神は他者の理解を必要としない。すれ違ったままでいてほしくなかった。
『一つ、問う』
天之御中主神は、人差し指を立てながら九十九に聞いた。
「はい」
九十九は固唾を呑んで、天之御中主神に応える。
『其方が我等の和解を望む理由は、なんだ』
これは天之御中主神も、シロも理解しているはずだ。いまさら述べたところで、くり返すだけである。
それでも、九十九は慎重に言葉を選ぶ。
「シロ様は……湯築屋と一緒に、永い時間を過ごします。わたしが、その……いなくなったあとも」
永遠の命を選ばなかったのは九十九だ。自ら、シロを置いて、人間として死ぬ選択をした。後悔はしていない。ただ、心残りなのだ。
天之御中主神とシロは表裏として存在していかなければならない。それなのに、理解しあえないままなのは、寂しすぎる。
だから、手伝いをするのが九十九の役目だ。
『つまり、その問題が解消されればよいのであろう?』
九十九は顔をしかめた。
「わたしは、あなたの巫女にならないと言ったはずです」
『そうではない』
天之御中主神が見つめていたのは、九十九ではなくシロだった。
「…………」
シロは眉根を寄せたまま黙っている。
彼には、天之御中主神の言いたいことがわかっているようだ。だが、口にするのは憚られる。そんな雰囲気が漂っていた。
『其方を手に入れたのだから、我と永遠に在る必要もなかろうよ』
九十九をまっすぐ指さされる。
わたしを?
「意地が悪いよ」
口を挟んだのは月子だった。呆れた顔で天之御中主神を見て、ため息をついている。
月子は九十九に視線を移し、胸の辺りを示した。
「あなたの力を使えば、シロを結界から引き離せる。そういう話よ」
九十九の力で、シロを結界から引き離す?
最初は意味がわからなかった。
しかし、じわじわと思い出す。
――あれを神の座から、降ろす力にもなるのではないか?
天之御中主神の言葉だった。
シロが神ではなくなる。
つまり、結界の役目を果たさなくてもいい――湯築屋の結界とはすなわち、天之御中主神を縛るための檻。
九十九の力は、シロを役目から解放できる。
天之御中主神は、その可能性を示したかったのではないか。
「だから、あのとき……天之御中主神様は、あんなことを言ったんですね」
いまさら、天之御中主神の真意に気づいて九十九は呆然とした。いつものとおり、言葉が足りていない。だが、天之御中主神は別の選択肢をすでに九十九の前に提示していたのだ。
シロが神様ではなくなり、結界から解放されれば……天之御中主神と共に在る必要はない。シロは自分が犯した罪からも逃れられる。
立ちはだかった問題は解決する。
九十九の力で、シロを解放できる?




