4.暗闇。
深々と降り積もる雪景色。
寒さは感じず、雪に触れても冷たくもない。吐く息も無色であった。ただ白く塗りつぶされた庭に、寒椿の赤が点々と咲いている。
縁側に腰かけるシロに、九十九はそっと歩み寄った。
「シロ様」
九十九はふわりと笑いかける。
シロはふり返らない。傍らに置いた煙管からは、薄らと紫煙があがっている。
珍しい。うたた寝をしているようだ。
神気が疲弊していない限り、神様は疲労をあまり感じず、睡眠の必要もなかった。ただ、天照などは
「縁側で横になるのは最高ですわ」などと言いながら、午睡することがある。あとは、二度寝の至福を味わいたい、などなど。食事と同じで、睡眠も神様にとっては娯楽の一部らしい。
さしずめ、お酒を飲みながら縁側で昼寝がしたかったのだろう。ごていねいに、飲みかけの日本酒も置いてあった。
九十九は息をつきながら、シロの傍らに座ろうとする。
「…………」
しかし、庭の向こうで動く影をとらえて、九十九は動きを止めた。
黒陽だ。
黒い狐が、こちらをじっと見つめていた。
九十九は目をこすってみるが、黒陽の姿は消えない。夢ではないのに、はっきりと視認できる。
「なんで」
九十九は、とっさに傍らのシロを確認する。まだ気づいていないのか、シロは眠ったままだった。
そういえば、黒陽からは神気の気配を感じない。いや……湯築屋の庭と完全に同化している。
つまり、結界と同質の神気を持っていた。だから、シロも気づいていないのか。
そんなこと、あり得るのだろうか。
「あ、ちょっと……!」
黒陽はしばらくもしないうちに、庭を横切って走っていく。
今すぐ追いかけないと。
「シロ様!」
九十九は急いでシロの肩を揺する。
だが、不思議なことにシロが起きる気配はなかった。
「あ……!」
そうしている間にも、黒陽が庭の塀を跳び越える。
起こして説明する時間が惜しい。それに、結界と同質の神気を持つ存在を見失えば、いくらシロでも探せなくなってしまう。
九十九は縁側の下駄を履き、急いで黒陽を追いかける。仕事を休む日なのに、どうして着物など選んでしまったのか。こんなときは裾が邪魔であった。
カツカツと下駄の音を立てながら、九十九は懸命に黒陽を追う。
「もう!」
九十九はわずらわしくなって、堪らず下駄を脱ぎ捨てる。どうせ、塀の向こうは虚無の世界だ。小石も小枝も落ちていないし、裸足でも怪我はしない。
塀を懸命に乗り越えて、九十九は湯築屋を出る。
黄昏の瞬間を写しとった藍の空。それと同じ色が広がる空間を、九十九は独りで駆けていく。
昏い世界を走る、真っ黒な狐。その境界がぼんやりとして、ときどき、なにを追っているのか見失いそうになった。
湯築屋から離れてしまうと、辺り一面が虚無の空間だ。なにもない。前方の黒狐と、後方で遠くなる湯築屋の遠景だけが目印だった。
こんな空間で迷子になれば、帰ってこられないかもしれない。幼いころ、塀の向こうには行くなと言われていた意味が、じわじわと身にしみてくる。言い知れない不安が、蝕むように心を侵食していった。
やっぱり、シロを起こしてから来たほうがよかった。
けれども、なんと説明しよう。黒陽はシロにとって、罰の象徴のような存在だ。自分のせいで死なせてしまった神使の片割れ。黒陽の名を突然出して、受け入れてもらえるか不安である。
「待って、黒陽。わたしに、なにを伝えたいの?」
九十九は語りかけるが、黒陽は止まらなかった。
そのうち、九十九の足どりは重く鈍り、どんどん黒陽との距離が遠くなっていく。体力が追いつかない。
「はあ……はあ……」
とうとう九十九は立ち止まり、黒陽の姿は闇に消えていった。せっかくここまで追ってきたのに、見失ってしまうなんて。
ふり返ると、湯築屋もなかった。いや、九十九が遠く離れすぎてしまっただけで、湯築屋は消えていない。ただ、視認できないと、計り知れない不安が胸を染めていった。
帰りは、こちらであっているのだろうか。九十九は後方を確認するが、絶対に大丈夫という確信が持てない。来た方向に帰ろうにも、目印がなさ過ぎる。どちらが正しいのか、一瞬で見失ってしまう。
途方に暮れて、九十九は一歩も動けなかった。
「シロ様」
自然と名を口にしていた。
怖かったから。それだけではない。結界の内側であれば、シロは九十九の呼びかけに応じてくれる。婚姻の儀を終えたあとなので、繋がりはより強くなっているはずだ。九十九のほうも、シロの存在を感じられるはずなのに……。
けれども、しばらくしてもなにも起きない。
ただ虚空に声が虚しく消えていくだけだ。
「駄目」
不安で押し潰されそうになるな。
九十九は自らを鼓舞しようと、両膝を軽く叩いた。
背筋を伸ばし、前を向く。
とにかく、なにか明かりが欲しい。真っ暗ではないが、なにもないのはそれだけで心許なかった。
九十九は両手をあわせて、意識を集中させる。
だんだんと、手が温かくなってきた。身体中の神気が、掌に集まっていく感覚。
手を開くと、花のような結晶が生まれていた。自分の力を結晶化して、その光で辺りを照らした。
九十九は目を閉じて、さらに神気を込める。
力が欲しい。自分で状況を打開する力。
大山祇神の試練では上手くいったのだから、落ちつけば大丈夫だ。
「よし」
力が集まり、実を結ぶ。
九十九の手の中で、結晶は透明な羽根へと形を変えていた。羽根は自ら光を放ち、昏くなっていた気持ちを幾分か落ちつけてくれる。
「よかった」
思わず喜びながら、九十九は羽根をふった。すると、遠心力に従うように羽根が伸び、和弓の形となる。
矢はないけれど、九十九は弓の弦を強く引いた。引き方を習ったことはないが、身体が自然に動いてくれる。
弦の音が虚空に響いた。
まるで楽器みたいに空気を振動させ、遠くへと響き渡る。空間そのものに、音が作用しているようだった。
「おねがい、届いて」
九十九の神気には引き寄せる力がある。
今、感知できるはずのシロの存在がわからなくなってしまっていた。ならば、さらに強い力でシロと引きあわなければならない。
この力で、シロを九十九のところまで引き寄せることができるのではないか。可能性でしかないが、九十九は賭けてみた。
けれども、懸念もある。さきほど、シロはなぜか眠ったまま起きなかった。神様の眠りは娯楽の一種で、揺さぶればすぐに覚めるものだ。
どうして、シロは眠ったまま応じなかったのだろう。
黒陽といい、なにかの法則が捻じ曲がっている。




