3.もう1つの未来。
母屋でシャワーを浴びて、身体がすっきりした。
結局、仕事にならないので、業務は登季子たちにまかせてしまう。
汚れをしっかり落として、ボディクリームを塗ったあとに、ストレッチ。身体を伸ばすと、代謝がよくなって痩せやすくなるらしい。
朝からシロの姿を見ていなかった。
けれども、なんとなく、どこにいるのか見当がつく。経験や勘ではなく、感覚でわかるのだ。
目を閉じると、薄らと繋がった糸のようなものを感じる。
赤い糸なんて表現をするとロマンチックだけれど、もっと霊的な繋がりだ。儀式を再度行ったことで、シロとの繋がりが深まったのだと思う。シロが湯築屋のどこにいるのか、九十九は感じとれた。
嬉しい。そういう気持ちがある。
シロとの繋がりが強まり、以前よりも夫婦という実感がわいている。不思議なものだ。最近まで、恋心にすら気づいていなかったのに。
今日は休みになったし、あとで行こう。
こうやってゆっくりするのも久しぶりだ。
台所をのぞくと、テーブルに蜜柑が置いてある。綺麗なオレンジ色で、大きさは中程度。やや平べったい見目で、外果皮は薄そう。たぶん、せとかだろう。
九十九は流れるような動作で、せとかを机の上でぐるぐると軽くこねる。こうすると、皮が薄い品種でも剥きやすくなるのだ。加えて、軽く刺激を与えることで、蜜柑の甘みが増す。
お風呂あがりの蜜柑は、最高。
普段は、あまり堪能する余裕がない。九十九は上手に皮を剥き、パクリと一口含む。弾けるような食感のあとに、トロリと濃厚なジュースが口内を満たした。さすがは、「柑橘の大トロ」とも呼ばれる品種せとか。甘みが強く、一粒でも満足感が得られた。
こうやって、甘いものを食べていると、眠くなってくる。なるほど、よく京が「バイト休みたい~」と言っている気分が理解できた。
テレビでも見ようか。それとも、動画配信サイトでも見ようか。久しぶりに本でも読もうか。
こんな風に過ごすことが少ないので、迷ってしまう。
「あれ……?」
しかし、気のせいだろうか。一瞬、目の前が霞む感覚があった。
次に強い目眩を覚えて、九十九は倒れ込むようにダイニングチェアへ座る。それでも目眩はおさまらず、額に手を当てた。
視界がぼやけて、そして再びクリアになる。
母屋の台所。同じ場所だ。
なのに、強烈な違和感があった。
置いてある調理器具が違う。
卓上の調味料が、普段と異なる。九十九が知らないパッケージのお醤油やドレッシングまであった。
「あ……」
不思議に思っている九十九の目の前を、黒い影が過っていく。
スッとした印象の身体は、神社の狛狐を彷彿させる。目尻の毛はわずかに金色に染まっており、野生の動物ではないのが一目でわかった。
「黒陽……」
かつて、シロと対の存在であった神使。月子はクロとも呼んでいた。
天岩戸の夢や儀式のとき、九十九の夢に現れている。
「待って!」
黒陽は、音もなく台所から消えてしまう。九十九は追いかけようと、母屋の勝手口から飛び出した。
履き物のデザインが変わっている。それに、母屋の庭に咲いている花も、どこか違和感があった。
湯築屋なのに、湯築屋ではない。
なにもかもが湯築屋なのに、九十九の知らないものが入り交じっていた。
ただの夢。
そうではない。
「あ……シロ様」
広い庭を突っ切ると、シロが立っていた。
シロは一人で佇み、庭の花をながめている。煙管の紫煙を吐く横顔は、変わらず美しい。藤色の着流しも、濃紫の羽織も九十九が見慣れたものであった。
九十九は安堵して、シロのほうへと歩み寄る。
「シロ様ー!」
九十九がシロを呼ぶ直前、別の声がする。
可愛らしい女の子だった。着ている制服は近くの中学校のものだ。あどけない顔で、シロに笑いかけながら走ってきている。
誰……? 九十九は目を凝らした。面立ちは九十九や登季子に似ているけれど、あんな子は見たことがない。
湯築屋の縁側には、他にも従業員と思しき人々がいた。けれども、どの顔も九十九には覚えのないものだ。
知っている人が誰もいない。
シロだけが、変わらず湯築屋に存在し続けている。
天岩戸に閉じ込められたとき、湯築屋の過去を夢に見たけれど、様子が違う。これはもっと最近の……いや、未来? 湯築屋の近い将来だろうか。
儀式の夢と同じ。
しかし、儀式の夢は湯築屋がなくなるという内容だった。今回は真逆。湯築屋が存続している。
でも、ここに九十九はいない。
シロだけが、湯築屋の結界とともに存在し続けている。
本来の湯築屋の在り方だ。
「シロ様……」
九十九はシロに近づこうとした。
けれども、隣まで歩み寄るのを躊躇してしまう。
シロの横顔は寂しそうだ。
どこか陰を持っていて、切なげで儚げ。
湯築屋の人々に囲まれているのに、どこか遠いところを見ているかのようだ。
九十九はどうしていいのかわからず、立ち尽くしてしまった。
「――――ッ」
だが、はっと気がつくと、そこにシロはいなかった。
使い古した台所のテーブル。食べかけの柑橘と、いつもの食卓調味料が並んでいる。調理器具も、見覚えがあるものだった。
また夢を見ていた。
白昼夢。婚姻の儀から、二度目である。
夢には必ず、黒陽がいた。天岩戸でも、あの神使は姿を現している。
黒陽はずっと昔に死んでしまった……どうして、いまさら九十九の夢に出るのだろう。
月子のように、残留する思念のような存在だろうか。それとも、まだどこかで生きている?
それに、二つの夢は――どちらも、湯築屋の未来だ。
湯築屋がなくなってしまう未来。
湯築屋が受け継がれていく未来。
予知夢のようなものだとしても、未来が二通りあるのは不可解だ。
それとも、これから決まるのだろうか。
どちらの未来が残るか……。
そうだとすれば、どのようにして決まるのだろう。
誰が――。
「考えすぎ」
駄目だ。
こういうことを、一人で考えるのはよくない。
ただの夢――そうは思えない。
「シロ様に」
シロに、相談しないと。
おそらく、これは特別な夢だ。
今までだって、九十九の夢には意味があった。
夢の内容をシロに話すのは憚れる。だけど、ここまで来て放っておくよりは、ずっといい。シロだって、九十九に自分のことを話してくれたのだ。九十九が隠して抱え込んでしまってどうする。
シロの居場所は、わかっていた。婚姻の儀以来、シロとの繋がりが強まっている。考えなくても、感覚で察知できた。




