2.大人しく休みます。
それは、まるで夢のようだった。
不思議なもので、すっきりとした目覚めだ。
「ん……」
布団から身体を起こし、九十九は背伸びした。
開けっぱなしの窓からは、藍色の空が見える。開けておいても、湯築屋の結界では風が吹かず、虫も入ってこない。
隣に視線を移すと、誰もいなかった。
綺麗に布団が敷いてあり、ずっと九十九しかいなかったかのようだ。
一抹の寂しさが九十九の胸を過り、「本当に夢だったのかもしれない」と思えてきた。たしかな証拠が欲しくても、残り香もない。
一方で、思い出すだけで顔が熱くなってくる。
九十九が知らないシロだった。シロとは生まれたときから一緒だし、いつも触れああっているのに……。
九十九はブンブンと首を横にふる。
忘れよう、忘れよう! 頭がポンコツになっちゃう。
「若女将……?」
そのタイミングで、襖の向こうから声がした。コマだ。
「は、はいー!」
九十九は慌てて返事をする。身支度は済んでいないが、コマは家族のようなものだ。あまり気にしなくていいだろう。
スッと、襖が数センチ開き、ぴょこりとコマが中をのぞき込む。
「ああ、若女将っ……よかったですぅ」
九十九の顔を見た途端、コマが一安心といった具合に胸をなでおろす。九十九のほうが首を傾げてしまう。どうしたのだろう。
「全然起きてこないので、体調でも崩しているのかもしれないって心配で……」
「え」
コマの心配とは裏腹に、九十九はギョッとした。
急いで時計を確認すると……もう十時半。ぎりぎり午前中とはいえ、いつもよりずいぶんと寝てしまった。
「うわ……寝坊。どうして、起こしてくれなかったの」
頭を抱えると、髪がわずかにもつれている。そういえば、昨日はお風呂にも入っていない。最悪だ。本当なら、早起きして朝風呂すべきなのに。
「女将が、そのままにしておきなさいって。おつかれでしょうから。でも、やっぱりいつもより遅いので心配になって」
コマは穏やかな面持ちで、ペンと頭をさげた。
「今日はゆっくりお休みしてください」
「そ、そういうわけには……」
昨日の儀式に集まったお客様の多くが湯築屋に宿泊しており、いつも以上に忙しいはずだ。とはいえ、すでにお見送りを済ませたお客様も多い時間帯なのだが……九十九は覚えている限りの宿泊客を指折り数えて、身体を起こす。
「すぐに支度します」
コマは頻りに「大丈夫ですっ!」と言っているが、うかうか眠っていられない。弛んだ気持ちを引き締めなくては。
頭を仕事モードに切り替えて、九十九は顔をパンパンッと叩いた。
と、急いで支度をしたのに。
「あら、つーちゃん。寝てていいのに」
「若女将。無理をしなくていいんですよ?」
着物を身につけ、湯築屋に現れた九十九に、登季子も碧もにこやかに声をかけた。二人とも、忙しく働きながらも、「休んでいて」と九十九を労ってくれる。
九十九は口を曲げた。
「ううん。みんなにまかせてばかりいられません。昨日はおもてなしされたから、今日はがんばって働きます」
午前中を無為にしてしまったのだ。挽回しなければならない。
「昨日は結婚式だったし、疲れてるだろう?」
登季子は九十九の肩を叩き、ニッと笑った。
「気持ちは嬉しいですが、若女将。今日はやめておいたほうがいいですよ」
碧の言っている意味がわからず、九十九は眉根を寄せた。
「大丈夫ですよ。しっかり寝たので、疲れもとれました。今、とっても頭が冴えているんです」
煩悩がないとは言い切れないが、仕事は問題なくできる。身体も軽いし、頭が冴えているのも本当だった。
「でも、つーちゃん。今、出ていったら天照様たちが――」
「お母さん、大丈夫だってば。わたし、浴場の点検してきます!」
みんな大袈裟なのだ。たしかに、結婚式は疲れたし、朝寝坊はしてしまったけれど、働くには充分だ。
九十九は意気揚々と浴場へと向かった。うしろから、「休んでていいのに」と聞こえてくるが、無視だ。無視。
今の時間は入浴するお客様も少ない。ささっと掃除を済ませたら、昼餉の配膳をする頃合いだろう。昼餉を希望するお客様はあまりいないので、大した仕事にはならない。休め休めとうるさい登季子たちも、これくらいなら許してくれるはずだ。たぶん。
「あ、ワカオカミちゃーん! 昨日はどうだったー?」
浴場へ向かう途中、廊下の前方からアフロディーテが手をふって歩いてくる。
「ああ、アフロディーテ様。昨日はありがとうございました。おかげで、とっても楽しかったですよ」
九十九は何気なく答えて笑った。
しかし、アフロディーテは人差し指を立てて舌を鳴らす。
「違うわよ」
「え?」
意味ありげにウインクされても、九十九はなんのことかわからない。考え込んでいると、アフロディーテは九十九に耳打ちした。
「…………!」
アフロディーテに耳元で囁かれた問いに、九十九はビクンと肩を震わせた。全身から変な汗が流れて、顔が火照ってくる。
「な、なんのことですかね……」
「あら、照れているの? やっぱり、ワカオカミちゃん可愛らしい」
アフロディーテは九十九の胸に指を当てる。触れている部分は少ないのに、じっくりとなで回されている気がして、くすぐったい心地だ。
「女神様が、いろいろ教えてあげるわよ。手取り足取り、ね」
強烈すぎる色香が九十九を襲う。なにもされていないのに、頭がクラクラして思考を放棄しそうになった。
「け、け、結構です!」
だが、九十九は自制心を保って首を横にふる。
これ以上、話していたら駄目だ……!
本能的に悟って、九十九は方向をキュッと変える。
「まあ、若女将。今日はいっそう、肌艶がいいですわね」
アフロディーテからの逃走を試みる九十九の前に、都合よく天照が反対側からやってきた。謀ったとしか思えないタイミングだ。現に、天照の顔にはアフロディーテと似たような種類の笑みが浮かんでいた。
これのことかー!
登季子たちが、頻りに「今日は休め」と言っていた理由を、九十九はいまさら理解してしまう。
たしかに、アフロディーテや天照に捕まったら、仕事どころではない。
「ワカオカミちゃん、ガールズトークしましょ」
「わたくしたち、ていねいに教えて差しあげますわよ」
「え……えーっと……」
天照から目をそらすと、アフロディーテが視界に入る。右を見ても、左を見ても、笑顔の女神が迫っていた。
両者とも、「根掘り葉掘り聞きたいし、初心な九十九をイジって遊びたい」と顔に書いてある。
ど、どうしよう……九十九は顔を引きつらせた。
もはや、女神たちに捕まって、恥ずかしい尋問を受けるしかないのだろうか。こんなことなら、登季子たちに甘えて休んでいればよかった。どうして、親の忠告を聞かなかったのか、いまごろになって悔やまれる。
「…………?」
腹をくくるほかない。そう思ったとき、足元に気配を感じた。
蛇だ。白い蛇が、九十九に忍び寄っている。
「ミイさん?」
道後公園内にある、岩崎神社に祀られる大蛇の神様だ。獰猛で人を襲う黒いミイさんと、それを鎮める白いミイさん。二面性を持つ神様である。
ミイさんは、九十九を見あげてチロチロと細い舌を出していた。人間の姿にもなれるのに、どうして蛇の姿をしているのだろう。このほうが移動しやすいのかな。などと、九十九はのんきに考えていた。
だが、次の瞬間。
「へ!?」
ミイさんのサイズが急に人間の背丈を超すほどの大蛇へと変じる。
以前に道後公園で見たミイさんに比べると小さいものの、九十九を頭から丸呑みするには充分であった。
「ひっ」
逃げることすらできずに立ち尽くす九十九を、ミイさんは大きな口で襲う。頭から足の先まで、すっぽりと丸呑みにされてしまった。噛まれていないので、痛みはない。
九十九は反射的に目を閉じて、ぐぐっと縮こまる。ミイさんの身体がシュルシュルッと、這っていく感覚だけがはっきり伝わり、ぞわぞわ身の毛がよだつ。神様の体内だと理解していても、気持ちがいいものではない。息もできず、ただただ混乱していた。
「……はぁッ」
時間にすると、短かったのだろう。しかし、九十九には数時間にも感じられた。
ほどなくして、九十九はミイさんの口から丸まま吐き出される。髪がベトベトするし、着物が生臭い。魚にでもなった気分だ。。
「ごめん」
ミイさんは、人の言葉で告げて元のサイズへと戻っていく。
「はあ……し、死ぬかと思いました……あれ?」
いきなりだったのでビックリしたが……よく見ると、庭へと移動していた。
「もしかして、ミイさん。わたしを助けてくれたんですか?」
丸呑みして、そのまま女神から挟撃から救ってくれたのだ。ミイさんは肯定して、コクリとうなずいた。
そもそも、湯築屋の結界はシロの領域である。特殊な条件でもそろわない限り、敵意を持つ者は排除されるし、神気も制限されるのが常だ。九十九を食べてしまおうとする神様は、通常ならば存在しない。
「なんか、ありがとうございます……」
九十九がお礼を述べると、ミイさんは蛇の姿のままで頭をさげる。
「燈火が助けてやれって」
ミイさんに言われると、柱の陰から種田燈火がひょこりと顔を出す。
九十九の大学の友人で、湯築屋の従業員ではない。しかし、昨日の儀式に参列していて、夜が遅くなったので宿泊したのだ。ミイさんとは、今のところ「おつきあい中」という関係だった。
「余計だったら……ごめん」
燈火はおどおどとしながら、九十九の前に出てくる。
「そんなことないよ」
九十九が首を横にふると、燈火は安心したように胸をなでおろす。
「あ、あんまり、そういうの聞かれたくないよね……興味はあるけど!」
興味はあるんだ……苦笑いしそうになるが、せっかく燈火が助けてくれたので、聞き流しておく。
「ボクだったら、嫌だなって思ったから」
「う、うん。ありがと……」
どことなく、気まずかった。
なんで、みんな昨日なにがあったか知ってる流れになってるんだろう。そういうものなの? 暗黙の了解? 予期していなかったのは九十九だけで、みんなにとっては、当たり前の流れだった?
釈然としないまま、九十九は息をつく。
なんか、疲れたなぁ……。
とはいえ、燈火とミイさんのおかげで、なんとか難を逃れた。
あの調子だと、今日は天照もアフロディーテも、あきらめてくれそうにない。なんなら、他に宿泊しているお客様からも、からかわれそうだ。
「今日は……休むかな……」
九十九は、肩を落とした。




