12.黒陽。
はっ、と気がついたように、肩が揺れた。
その反動で、九十九は両の目を大きく見開く。
身体が前に倒れかけていたようだ。畳には御神酒がこぼれ、九十九をシロが支えていた。
夢から……醒めた?
「九十九!」
シロが叫び、九十九の肩を揺らしていた。切迫した声で、何度も何度も、九十九を呼びながら縋るように抱きしめる。
「シロ様……」
まだ頭がぼんやりとしていて、動悸が酷い。それでも、シロを安心させたくて、九十九は声をしぼり出す。
「九十九……大事ないか?」
身体は大丈夫だ。意識もはっきりとしている。
「はい」
九十九はコクリとうなずいた。
なにがあったのだろう。九十九にも、わからない。
ただ……九十九は、畳にこぼれた杯を見おろす。
大中小の杯には、意味がある。小さい一の杯は、過去。二の杯は現在。そして、大きい三の杯は未来だ。
未来を意味する御神酒に口をつけた瞬間に見た白昼夢。
あれは、湯築屋の未来?
そう考えた途端、背筋が凍った。
「どうした、九十九。顔色が悪い……」
シロが九十九の顔をのぞき込む。
「い、いえ……」
しかし、九十九は首を横にふった。
「お酒が、口に入っちゃったみたいで……」
なにがあったのか、とても言えない。
九十九は下手に誤魔化して、苦笑いをした。こっぴどく酔っ払ってしまった前科があるので、説得力はあるだろう。
湯築屋がなくなる夢なんて……。
それに、夢に出た狐。今にして考えると、シロの神気と似ていた。そして、どこで見たのか、完全に思い出してしまう。
あれは、黒陽。
シロと対となる存在で、宇迦之御魂神の神使だ。
けれども、黒陽はもういない。シロが月子を救ったとき、代償として命が絶たれてしまったのだ。こんなところで、九十九の夢に出るのは、おかしい。
とてもシロに言える話ではなかった。
「それなら、よかった」
九十九の言葉に、シロが心底安堵している。細い身体をきつく抱きしめられたので、九十九もシロの背に手を回した。まるで、怯える子供だ。早く落ちついてほしくて、そっと背中をなでてやる。
夢のことも、あとで考えればいい。
九十九は一度、思考を放棄した
「シロ様、九十九ちゃん」
しばらくそうしていると、小夜子から声をかけられた。優しく笑いながら、九十九のそばに立っている。
小夜子だけではない。参列していたお客様も、従業員も、みんな九十九たちを囲んで笑っていた。どちらかというと、「にやにや」といったところか。
九十九の顔が熱くなっていく。一方のシロは、まだ九十九に抱きついていた。頬ずりなどされてくすぐったい。
「九十九、九十九」
「し、シロ様……! ちょっと離れませんか!」
見られすぎて恥ずかしい。九十九はシロの身体を引き離そうと、ぐいぐい押した。だが、シロは九十九にしがみつく。
「何故。九十九と儂の仲睦まじい夫婦っぷりを、皆に見せつければよかろう!」
「わかってるんだったら、離してくださいよ!」
「嫌だ!」
「ワガママですか!」
途中から、確信してやっていると気づき、九十九はシロの肩をバシバシ殴った。けれども、それくらいではビクともせず、顔にニヤリと笑みが描かれる。なんだかとっても腹が立つ。
「さあさあ、イチャイチャはそこまでにして」
不毛な遣り取りをしていると、登季子が両手を叩いて注目を集めた。イチャイチャしていたつもりはないのに……。
「みなさま、宴の準備ができておりますよ」
にっこりと笑いながら、登季子が広間の襖を開ける。
続き間には宴席の用意がしてあり、すぐに飲み食いできる状態だった。いつの間にか、八雲や碧が、おもてなしの準備をしていたようだ。
「おうおう。祝いの席には、酒がないとはじまらぬ」
「飲み明かそうではないか」
お客様たちが楽しげに宴席へと移動していく。結婚式の披露宴、というよりは、宴会のノリだ。
宴席会場となった広間には、それぞれの御膳が並べてあるほかに、大皿に盛られた特別料理も用意されていた。
お祝いの席らしく、大きな真鯛が尾頭付きで舟盛りの刺身になっている。それだけではなく、一尾丸々の煮つけが添えられた鯛素麺。四色の彩りをつけて糸こんにゃくのうえに盛られた、ふくめん。鯛、海老、ハマグリなどの食材を豪快に焼いて大皿にのせた法楽焼など……どれも愛媛県の祝い事で振る舞われるメニューだ。
中央には、ウエディングケーキも用意してあった。薔薇の生花によって飾りつけられた意匠が美しく、一際目を惹く。こんなもの、いったい、いつ用意したのだろう。幸一や将崇が、九十九に隠れて準備したと思うと、感心するしかなかった。
でも、お祝いのお料理を囲むお客様の人数は多いけれど……いつもの湯築屋の光景であった。
神様たちが集い、語らい、美味しいごはんを食べている。
湯築屋の日常だ。
他愛もない、しかし、かけがえのない。
「九十九、行くぞ」
ぼんやりしとしている九十九を、シロが抱き起こす。
「はい」
返事をする九十九の脳裏には、夢で見た未来がよみがえってしまう。
今、目の前に広がる日常。
これが消えるなんて……考えられない。
もしも、そんなことがあるのならば、九十九は絶対に阻止したい。
「…………」
お客様たちは、みんな楽しげに飲み食いしている。
けれども、その中で宇迦之御魂神だけは、黙って九十九たちを見つめて佇んでいた。
九十九が首を傾げると、ただ宇迦之御魂神は微笑みで返す。
「さあ、宴なのだわ。主役がいないと駄目でしょう? ケーキ入刀とやらを披露してちょうだい」
手招きされて、九十九は慌ててうなずいた。
神様たちの宴は、深夜まで続いた。




