11.どこかで見たあなた。
「待っていたのだわ」
最初に飛び込んだのは、宇迦之御魂神の姿だった。
白い狩衣をまとい、九十九に向かって微笑んでいる。その姿がシロに似すぎていて、九十九はすぐに言葉を発することができなかった。
「……宇迦之御魂神様。これって、どういう……?」
「儀式よ。みんな、待っていたのだわ」
宇迦之御魂神が視線を九十九から外す。
九十九も、釣られるように大広間を見渡した。
広間の両端に並んで控えていたのは、湯築屋の従業員たちだ。番頭の八雲、仲居頭の碧、コマ、アルバイトの小夜子や将崇。そして、燈火の姿もあった。
奥にも視線を向けると、湯築屋のお客様たちもいる。
「ワカオカミ、これは美しい!」
「ちょっとダーリン。目が嫌らしくてよ」
ギリシャから駆けつけたのか、ゼウスとヘラが座っている。インドのアグニ、シヴァもいた。伊波礼毘古や菅原道真、須佐之男命、大山祇神までそろっている。
「なるほど。実に興味深いね」
「こりゃあ、筆舌に尽くしがたい」
お袖さんの隣で、俳句を詠もうとする正岡子規、綺麗に着飾ってお化粧もバッチリの火除け地蔵、テンション高めにピースサインするツバキさん、少彦名命と会話している大国主命、涙で顔がぐちゃぐちゃの田道間守……。
みんな、どうして集まっているのだろう。
「婚礼の儀よ」
途方に暮れている九十九に対して、宇迦之御魂神が微笑んだ。
「え……でも……」
九十九はポカンと口を半開きにした。
婚礼の儀……問うまでもなく、シロとの婚礼だろう。しかし、九十九とシロの間には、すでに婚礼の契りが結ばれている。
「もう一度、儀式を行うのだわ」
「もう一度?」
「そう。もう一度……契約を結びなおすことで、繋がりをより強固にできるから。あなたがいっそう、白夜と近くなるために」
宇迦之御魂神の目には、「白夜の役に立ちたいのでしょう?」と書かれてあった。
九十九は息を呑んで、視線をさげる。
「でも、それって」
恐ろしい考えが脳裏を過った。九十九とシロの結びつきが強くなってしまうと、どうなるのか。
神様に近づいてしまったら、九十九は人ではなくなって――。
「杞憂よ。これは、そういう類の契りじゃないわ」
九十九の思考を読んだかのように、宇迦之御魂神は手を差し出した。
騙そうとしているわけではない。宇迦之御魂神は、そのような神ではなかった。第一、こんなに神様や従業員がそろう前で、九十九に嘘を吐けないだろう。
「……信じます」
九十九はあまり長く考えず、宇迦之御魂神の手をとった。
「あと、あなたは幼すぎて、自分の婚礼を覚えていないのでしょう? もったいないと思うわ。今日は存分に楽しんでほしいの……これは、白夜を孤独から救ってくれた、私なりのお礼なのだわ」
少女のような可憐な表情で、宇迦之御魂神は九十九を導いた。
そして、彼女のうしろに立っていた影を示す。
「あ……」
見慣れているはずなのに――心臓が、一瞬止まりそうだった。
いつもの衣装ではない。
真っ黒な羽織に落ちる白い髪が、夜空に流れる河のようだ。
こちらをふり返る動きにあわせて、ピシリと整った袴が優雅に揺れる。動作一つひとつが、普段どおりなのに、洗練されて感じた。
琥珀色の瞳を向けられるとき、九十九は息を止めてしまった。
「九十九」
シロが九十九を呼んだ。
九十九はシロに見惚れていて、反応が一拍遅れる。
「……は、はい」
緊張で上擦った声を発しながら、九十九は前に歩いた。
右手と右足が同時に出てしまう。着物での歩き方は常日頃から染みついているはずなのに、ぎこちない。
「ひ」
緊張しすぎだ。着物の裾を踏んで、九十九の身体は前のめりに傾いていった。恥ずかしいと感じる暇もない。
「九十九、大丈夫か?」
ふわりと、身体の傾きが止まる。胴を支える二本の腕がたくましくて、いつまでもしがみついていたかった。
「ご、ごめんなさいッ」
しかし、シロに抱きとめられたのだと気づき、九十九はすぐに身体を起こす。この段階になって、恥ずかしさで顔が熱くなってくる。
こんなにたくさんのお客様が見ている前なのに……けれども、周囲の空気は和やかなもので、笑って流している。これはこれで、恥ずかしい。
婚礼の儀と言っても、結婚式ではない。正式な手順で儀式を行いさえすれば、綺麗な衣装も、参列者も必要ないのである。
それなのに、みんな集まってくれた。
ここにいるのは、神様ばかりだ。儀式の意味も、手順も知っているだろう。承知のうえで、九十九とシロのために湯築屋へ集まっている。
恥ずかしいけれど……単純に嬉しかった。
「みなさま……ありがとうございます」
九十九は自然と、参列者に向けて謝辞を述べていた。もっと、気の利いた言葉があったかもしれない。結婚式のスピーチだと思えば、幼稚すぎる。それでも、九十九にとっての精一杯だった。
九十九とシロは、手に手をとって広間の奥へと歩く。和装なのに、どこからか花びらが舞っていた。ヴァージンロードみたいだ。
広間の最奥には、祭壇が用意されている。
朱塗りの台に鏡が置かれ、小さな鳥居が立ててある。一段下がったところに、白磁の徳利と大中小の杯が備えてあった。
祭壇の前にシロと九十九、並んで正座する。
「儀式の手順は、わかるかしら?」
宇迦之御魂神に問われ、九十九はコクリとうなずいた。もう幼いときの儀式は覚えていないけれど、どのようにするのか聞いたことがある。
「シロ様……」
まずは、九十九がシロの小さな杯に御神酒を注ぐ。お酒の香りで、昨日、九十九が買ってきた仁喜多津であるとわかる。
水みたいに透きとおった御神酒で杯が満たされると、今度はシロが九十九の杯に徳利を傾けた。
「九十九」
鏡のように、杯には九十九の顔が映っている。視線をあげると、シロの琥珀色の瞳があり、心臓が大きく、ゆっくりと、ドキ、ドキ、脈打った。
緊張している。
しかし、穏やかな気持ちだ。
九十九とシロは、祭壇に向きなおる。
九十九は二十歳になっていないので、御神酒を飲む必要はない。
先にシロが御神酒を三度にわけて飲み干す。それを確認して、九十九も御神酒に三度口をつけた。
それを二の杯、三の杯でもくり返す。三つの杯は、それぞれ夫婦の過去・現在・未来を表しているらしい。
最後の杯。隣でシロが御神酒を口にする。
九十九は前の二杯と同じく、飲まずに口をつけた。
「…………」
だが、三度目に口をつけた瞬間、違和感を覚える。
視界が歪んだ。
祭壇がぐにゃりと曲がり、畳が回っている。
あれ……酔っちゃったのかな……飲んだつもりなんてないのに……。
宙にふわふわと意識が漂う感覚。まるで、夢の中みたい――夢なのかもしれない。現実との境界があいまいで、正しさがわからなかった。
「あれ……」
九十九の目の前を、黒い影が横切っていく。
スラリと細い四本足と、ふわふわの尾。漆黒の毛並みをしているが、すぐに「狐だ……」と思った。
自然と視線が黒い狐に吸い寄せられる。いつの間にか、九十九はどこかの道に二本の足で立っていた。みんなの集まる大広間はない。天照たちに着せてもらった美しい衣装も、いつもの私服に変化していた。
「ここ……」
辺りを見回すと、よく知っている景色だ。
道後温泉街の入り口であるアーケード商店街。放生園の足湯には、楽しげな観光客の姿がある。そこから緩やかに延びる坂の先には、八幡造の伊佐爾波神社が鎮座していた。
黒い狐は、その坂道を歩いていく。ときどき九十九をふり返る仕草が「ついてこい」と言いたげであった。
この先には……湯築屋がある。
いつもの道。
九十九が見慣れた景色だ。
あの狐は、なんだろう。見覚えがあるのに、思考が上手く働かなかった。
以前にも会った……天照に見せられた夢にも出てきた気がする。いや、それより前にも……。
「え?」
やがて、坂道をのぼった先。
九十九は強烈な違和感に苛まれ、足を止めてしまう。
あるべきものが、ない。
なんの変哲もない、木造平屋の宿屋。暖簾がかかった門が、そろそろ確認できる頃合いだ。
九十九が見知った景色。
湯築屋。
「うそ……」
思わずつぶやき、九十九の足が一歩、二歩と前に出た。だんだん歩調が速まり、走って狐を追いかける。
やがて辿り着いた場所には、空き地があった。
雑草が生え、長らく誰も使っていないのが明らかだ。この空間だけぽっかりと穴が空き、道後の街に置いていかれてしまったかのよう。
空き地に踏み込んでも、なにも起きない。建物どころか、ここにあるはずの結界そのものが消えている。
湯築屋が……ない。
愕然として、声が出なかった。
「どういうこと?」
今見ているのは、ただの夢だろうか。
信じられずに、九十九は敷地内をぐるぐると歩き回る。
けれども、嘘ではないと言いたげに、黒い狐が九十九の足元に進み出た。九十九は放心した状態で、狐と向かいあう。
この狐、やっぱりどこかで……。




