10.儀式とは。
その日は、夢を見なかった。
夢を見ているのに慣れていたせいか、驚くほど目覚めがいい。九十九は、すっきりとした頭を起こし、うえに伸びあがった。清々しいとは、このことだ。
宇迦之御魂神との儀式の日だ。
しかし、九十九が準備したのは、せいぜい清酒くらい。本当に、これで大丈夫なのかと心配になる。
それでも、宇迦之御魂神を信じて、九十九は儀式に臨むほかないのだ。
なにをするのかという不安はあるけれども、宇迦之御魂神を信じていれば大丈夫という安心感があった。
九十九は軽く寝癖を整えて、パジャマにカーディガンを羽織る。母屋の台所からは、朝ごはんの匂いが漂っていた。
「おはよう、つーちゃん」
いつものように、台所に入った九十九をふり返ったのは、父の幸一……ではなかった。
「お母さん?」
台所に立ち、九十九を迎えてくれたのは、登季子である。胸の開いたブラウスのうえから赤いエプロンをつけ、ニコリと笑っていた。コンロにかかっているのは、味噌汁だろうか。ふわりと、いい香りがした。
「トキちゃんが朝ごはん作ってくれてるんだよ」
ダイニングテーブルに、幸一がついていた。穏やかな表情で、登季子と九十九を見守っている。
「え、でも……どうしても、会っておきたい神様がいらっしゃるって……今日の朝には出発しちゃうんじゃなかったの? 飛行機、間にあう?」
登季子は湯築屋の女将だが、海外の営業担当でもある。
九十九の修行のため、近ごろは湯築屋に長く滞在してくれるが、それでも大事なときには、営業に出かけていた。
「そうなんだけど、つーちゃんの晴れ舞台って聞いたから、キャンセルしちゃった。娘なんだからさぁ!」
登季子は当然のように言い放ち、鍋から顔をあげた。九十九は席に座りながら、「晴れ舞台?」と首を傾げる。
「お祝いだからさ。お母さんがいないわけにもいかないだろう?」
仕事好きの登季子が営業をキャンセルするなんて珍しい。同時に、自分がそうさせてしまったのだという申し訳なさがわいてきた。
「トキちゃん、味噌汁沸騰してるよ」
登季子が目を離した隙に、鍋がぐつぐつ煮えていた。幸一に指摘され、登季子は慌てて火を消す。
「ごめんごめん。気をつけてるんだけど、ついやっちゃうんだよ。あんまり味変わらないだろう?」
味噌汁を沸騰させると、味噌の香りが飛んでしまう。けれども、登季子は大して気にする素振りもなく、アツアツの味噌汁を椀に注ぎわけた。
「トキちゃんが作ったものは、なんだって美味しいよ。ありがとう」
幸一は料理人だが、登季子や九十九が作るものには寛容だ。細かな味つけや失敗には文句をつけない。
食卓に皿が並ぶ。
「……でも、お祝いって? なにも、ないけど?」
九十九本人には、とくに覚えがなかった。
しかし、登季子も幸一も、にこやかに娘をながめてくる。
テーブルには、並べられる焼き塩鮭と、ほかほかの白ごはん。麦味噌汁も、充分にいい香りがしている。
「え?」
普通に朝食の雰囲気だが、なにも説明されていない。
九十九だけが、パチクリと目を開閉させ続けた。
どうして、こんなことに!?
自分の置かれている状況がわからず、九十九は言葉を失っていた。
「神前式みたいなものだし、白無垢がいいんじゃないのかい?」
「なにを言っていますの? 若女将は十代なのですよ。肌をたくさん出したウエディングドレスのほうがいいに決まっています!」
「若女将ちゃんは、なんだって似合うんだからキモノドレスがいいわよ。あたしと同じ。姉妹みたいで可愛いじゃないの!」
呆然とする九十九の前で言い争っているのは、登季子、天照大神、アフロディーテの三者であった。登季子は女将、天照とアフロディーテはお客様であるが、それぞれ一歩も譲らない勢いがある。
「な、なんの話をしてるんですか……だいたい、ご宿泊中の天照様はともかく、どうしてアフロディーテ様まで……」
天照は湯築屋の常連客で、長期連泊が多い。アフロディーテも常連ではあるが、今回、宿泊の連絡は受けていなかった。
アフロディーテは美し過ぎるバストラインを強調しながら鼻を鳴らす。
「もちろん、若女将ちゃんの結婚式を手伝うためよ」
とても様になっていて、見惚れてしまう。そのせいで「そうなんですか」と答えそうになったが、九十九は意味を再確認して目を剥く。
「誰の結婚式ですか!?」
「あ・な・た・の・よ!」
聞き間違いではなかった。
九十九が叫ぶと、アフロディーテも天照も登季子も、にっこりと笑い返す
「だ、だって……儀式って……」
今日は宇迦之御魂神との儀式をするという約束だったはずだ。
それなのに、どうして結婚式なのだろう。どこで、どう説明が捻じ曲がったのか知りたかった。
「いいから、いいから。まかせておきなよ」
「で、でも」
ロクな説明もされないまま、登季子が九十九の前に姿見を置く。
「仕返しだよ」
不敵に笑った登季子は、短くそう告げた。
アフロディーテとジョーが結婚式を挙げたとき、九十九はサプライズを仕込んだ。幸一との結婚式を行えていなかった登季子のために、ドレスを用意したのである。登季子の驚きようは、今でも覚えていた。
その仕返しだと言われると、九十九は黙らざるを得ない。
「ウエディングドレスにいたしましょう。瑞々しい肌を出さぬ理由がございません」
天照が叫びながら九十九の右手に触れる。
すると、九十九の着衣が舞いあがり、軽やかな白いドレスに変じた。天照の希望どおり、胸元や肩が大きく開いた大胆なデザインである。九十九は気恥ずかしくて、背中を丸めてしまう。
「キモノドレスよ、キモノドレス! 肌も見せられるし、派手だもの!」
アフロディーテも対抗しながら、左手をつかんだ。
その瞬間、純白のドレスが和柄に変じる。鶴の意匠が華やかなばかりではなく、髪飾りや帯に使用されたエメラルドグリーンが鮮やかに目を惹いた。やはり、肩が大きく開いていてスースーする。
「お、お着物のほうが……落ちつくかも……」
九十九はドレスなんて着慣れていないので、ついそうつぶやいてしまう。
そもそも、どうしてこんな衣装選びをしているのかも、謎だった。誰かそろそろ説明してほしい。
天照とアフロディーテは、やや不満そうだったが、「わかりました」と指を鳴らす。途端に、九十九のドレスは綺麗さっぱり消え去り、代わりに白無垢をまとっていた。
「もう……キモノは構わないし、こういう伝統なのはわかっているのだけれど、地味だわ。せめて、色か柄をつけましょうよ」
「では、色打掛にいたしましょうか」
アフロディーテの提案に、天照が肩を竦める。
九十九の着物に、足元からグラデーションのように色が入っていく。まるで、着物の柄が生きているかのような動きだ。やがて、四季折々の花が着物全体に咲き乱れた。金糸や銀糸をふんだんに使用した豪華な模様である。
「これは、あたしから」
アフロディーテが、九十九の髪にキスをした。
鏡に映る髪型が変わる。毛先をふわふわに遊ばせたアップヘアーが可愛らしく、着物の柄と同じ生花が、髪飾りとして咲いた。生花を飾るようにキラキラ光っているのは、伊予水引だろうか。
いつの間にか、お化粧もしてある。普段よりも大人っぽくて、垢抜けた印象だ。それでいて、肌のトーンも明るくなった気がして、瑞々しい。
綺麗……。
思わず、九十九も放心してしまった。これは本当に、自分なのだろうか。つい、両手を広げて着物を観察する。
「さあ、張り切って行くよ」
登季子がポンッと、九十九の背中を押した。
その途端に、目の前にあった襖が左右に開く。
大広間とは、続き間になっている。九十九は突き飛ばされる形で、前に進んだ。




