6.準備はよいかな?
湯築屋の外でも梅のつぼみがほころび、白や赤の花が顔を見せはじめている。吹く風は冷たいけれど、陽射しが温かい。
冬の寒さは厳しく、それでも、わずかに春の兆しが確認できる日和。熱めの湯温に設定された道後温泉へ入るには、ちょうどよい季節だ。アーケード商店街でも、多くの観光客が歩いていた。
そんな道後のメインストリートから外れて。熱田津の道を、九十九はゆっくりと進んでいく。
昔は道後の近くに海があったという。熱田津の道は、港と道後を繋いで人々が行き来した通りである。
石畳風に整備された道は歩きやすい。道沿いをのどかに小川が流れ、ゆったりとした空気を味わえる。観光客向けの商店も多いが、比較的人通りが少ないため、のんびりと景色をながめる余裕があった。
そんな熱田津の道沿いに建つ酒蔵は、一際目立つ。
暖簾のかかった入り口からは、神輿や酒樽の展示がチラリと見えた。しかし、その奥では実際に従業員たちが働く姿もあり、きちんと稼働する酒造であるとわかる。
販売所へと回り込み、九十九は固唾を呑んだ。
シロのために必要なもの。
宇迦之御魂神は、「儀式」を行うと、九十九に告げた。
九十九は儀式に必要なものの調達を、宇迦之御魂神から仰せつかっている。
「大丈夫かな」
と、言っても……お酒なんだよね……。
儀式に使用するお酒を選んでくるように。というのが宇迦之御魂神からの言いつけであった。なるべく土地の酒がいいらしいが、とくに指定がない。
――あなたが気に入ったものを選びなさいな。
などと言われたものの、九十九は二十歳ではない。
通常、二十歳未満はお酒を買えない。しかしながら、この酒造とは古くから湯築屋と取り引きのある。たいていは番頭の八雲が買いにくるのだが、九十九の顔も覚えてもらっていた。
買うことはできるものの、お酒を選べと言われたって、九十九には善し悪しがわからない。そもそも、試飲ができないのだ。
お勧めを聞いて、買って帰ればいいよね。ここの商品はシロも気に入っている。だったら、なにを買っても外すことはないだろう。
九十九は販売所の戸に手をかけた。
「あ……」
入った瞬間、香りが鼻孔をくすぐる。
酒粕のような甘い匂いが漂っている。お酒を飲まない九十九にとっても、優しくて温かい香りだ。甘酒を飲んでいるときみたいに、ほっと心が安らぐ。
店内には、商品である日本酒や焼酎の瓶が並べられている。ほかにも、日本酒を使用した化粧水や美容パックまであり、九十九はそちらにも目を奪われた。大学に入って化粧をするようになったせいか、お肌のメンテナンスにも興味がある。
「なんだぁ、客人かー?」
店の奥から、荒々しい口調の声が聞こえてきて、九十九は肩を震わせた。
出てきたのは明らかに店員ではない。
まとっている衣は、洋服と形容するには、いささか……襤褸と称するのが正しそうだ。胸元が豪快にはだけ、たくましい大胸筋が露出している。腰に大きな刀を帯びており、とても現代の格好とは思えない。
海賊……そんな単語が頭に過った。
けれども、この方の顔を九十九は知っている。
「大山祇神様、お久しぶりです」
九十九がにっこりと笑うと、どう考えても店員ではない大山祇神は、「おう!」と片手をふりあげた。
大山祇神は、山の神である。全国に分布する大山祇神社や三島神社の祭神だ。とくに、大山祇神社の総本山は愛媛県の大三島にあり、湯築屋にもときどき訪れる神様だった。
彼は山の神だが、同時に海の神でもある。そして、軍神という側面も持っているため、古代から武将や海賊からの信仰が厚かった。
大三島の大山祇神社には、中世の武具が多く奉納されている。その大部分が重要文化財や国宝に指定されており、大三島は「国宝の島」とも称されていた。源義経が着用した八艘飛びの胴丸など、九十九も印象に残っている。
「いつもとお姿が違うので、ドキッとしちゃいましたよ……」
湯築屋へ来るときの大山祇神は、武者姿だ。鎌倉時代から南北朝時代を想起させる大鎧に身を包み、武装しているのが常だった。
今、目の前にいる姿も、武装と言えば武装なのだが、方向性が異なっている。
「宇迦之御魂神から、店員をやれと仰せつかったからな。お前がこちらのほうが、それらしいだろう?」
大山祇神は、見せびらかすように、その場で一回転してみせる。襤褸切れをまとっているが、海賊然とした風格はワイルドでかっこいいとも言えた。
「店員らしいかどうかはアレですけど……お似合いですよ」
「はっはっ、正直者めが。本当のことを申すと、店の入り口で兜が引っかかってな。仕方なく脱いだが、直垂で商品を倒しそうになってしまった。こちらのほうが軽装で動きやすくてのう」
「なるほど、そういうことだったんですね」
大山祇神は豪快に笑って解説してくれた。海賊に扮しているが、立ち振る舞いは武将という雰囲気だ。
「ところで、どうして宇迦之御魂神様は大山祇神様に、お店を?」
「おうよ。お前を手伝ってやれと、頭をさげられてな」
大山祇神は、宇迦之御魂神の祖父に当たる。日本神話の神々は血縁を持っていることが多いのだが、宇迦之御魂神がわざわざ頭をさげたというのが引っかかった。
「お手伝いなんて……お買い物ですし」
「大事な儀式だからな。よい酒を用意してやらねばなるまい」
大山祇神は当たり前のように言いながら、適当な商品を手にとる。一升瓶に入った大吟醸が、音を立てた。
「俺の得意分野だ」
大山祇神には、本当に様々な側面がある。山の神、海の神、軍神。それだけではない。酒造りの神としても信仰されている。彼には酒造業の守神、酒解神という別名もあった。
そんな神様に、お酒選びを手伝ってもらえるなんて心強い。が、同時に、湯築屋を訪れるお客様でもあるので、お手を煩わせて悪いと思ってしまった。
「まあ、よいよい。とりあえず、飲んで決めろや」
大山祇神は豪快に笑いながら、試飲の準備をはじめる。
けれども、九十九は両手を前に出した。
「い、いえ……わたしは、まだお酒が飲めないので……お勧めを教えていただけたら、それを買います」
お酒は二十歳からだ。それに、九十九は以前、天照に飲まされて痛い目を見た。少量で酔っ払って、大変なことになってしまったのだ。あれを思い出すだけで、恥ずかしい。二十歳になっても、お酒を飲むのが怖かった。
「ちょろっと、舐めるだけぞ。御神酒と一緒じゃ」
「いや、何種類も舐めたら一口と変わりませんし……」
九十九が頑なに断るので、大山祇神はつまらなさそうに肩を竦める。
「だがしかし、大事な儀式ではないのか」
宇迦之御魂神から、儀式の内容は聞かされていない。そんなに大事なのかどうか、判断がつかなかった。
けれども、大山祇神に酒選びを依頼するほどだ。九十九が考えている以上に、意味のある行為なのかもしれない。
「できるだけ、お前の好きなものを選んだほうがよいと思うぞ。まあ、待っていろ」
大山祇神はそう言いながら、店の奥へと引っ込んでいく。九十九は急に不安になって、視線を落とした。
「ほら、これならいいだろう?」
しばらくして、大山祇神が戻っている。手にした盆には、小皿がのっていた。
「これって……酒粕ですか?」
「然り」
お酒が飲めない九十九のための試食だ。正方形に切り取られた酒粕が、九十九の前に差し出された。
とはいえ、お酒と酒粕は違う。試飲の代わりになるのか、少し疑問である。
「酒は俺が選んでやってもいい。だが、お前が好きなものを渡してやりたいのだ」
気に入りもしないものを買って帰らせない。そういう意図が読みとれた。
「大事な酒の味くらいは、知っておけ。仁喜多津の大吟醸だ」
「は、はい……」
戸惑いながら、九十九は酒粕を一切れ口に含んだ。
甘酒のような甘みはなく、口の中でねっとりと塊が溶けていった。アルコールがほとんど入っていないのが嘘みたいに濃い酒の旨味を感じ、お酒の板を食べている気分になれる。
しかし、風味がいい。甘くないのに、米の甘みをしっかりと味わえた。後味もすっきりとしており、甘酒よりも爽やかな心地だ。
酒粕をそのまま食す機会があまりないので、美味しいかどうかは判断できない。だが、嫌いな味ではなかった。
「同じ大吟醸から作ったチーズケーキだ」
九十九の前に、大山祇神がもう一皿置いた。横に、仁喜多津の大吟醸が入った桐の箱を並べる。
「じゃあ、こちらもいただきます」
九十九は断りを入れて、チーズケーキも口にする。
今度は甘かった。チーズケーキらしい、しっとりと濃厚な味わいが口の中で解ける。それだけではない。遅れて、日本酒独特の芳醇な甘みと風味が口中に広がった。
チーズケーキなのに、しっかりとお酒の味がする。さっきの酒粕とは、まったく違った楽しみ方だ。それなのに、同じお酒だとはっきりわかる。
「美味しいです……!」
すっかり興奮してしまい、笑顔になる。
大山祇神はようやく満足げに表情をほころばせた。
「それじゃあ、仁喜多津の大吟醸。お買い上げでいいな?」
「はい、おねがいします」
九十九が答えると、大山祇神はうなずく。
「おう。じゃあ、準備はよいかな?」
準備? なんの話かわからず、九十九は小首を傾げた。
そんな九十九など放って、大山祇神は「よっ、と」と声をあげながら、腰を屈める。レジカウンターの向こう側で、がさごそとなにかを探っていた。
「大山祇神様?」
不審に思い、九十九はレジカウンターに身を乗り出した。
「ほい、これだ」
大山祇神は言いながら、大きな甕を取り出す。持ちあげるのも一苦労しそうな甕を、いとも簡単に九十九の前に置いた。
なに? これ?
九十九が固まっていると、大山祇神は笑顔でバシッと肩を叩いた。
「それじゃあ、行ってくるがいい」
「行く?」
疑問に答えてもらう前に、九十九の身体が前のめりに傾いた。
「え……?」
倒れないように両足で踏ん張ったけれど、身体が吸い寄せられるみたいに抗えない。九十九はそのまま、頭から甕に突っ込んでしまった。




