5.儀式をしましょう。
宇迦之御魂神のご宿泊は、いつも五光の間と決まっている。
庭を見渡す露天風呂のある唯一の部屋だった。調度品も、他の客室とは趣が異なっており、明治大正期のレトロな雰囲気を味わえる。湯築屋では一番上等なお部屋であった。
三階に位置する部屋の前に、九十九は膳を置いた。中へ声をかけて、返事を確認してから入室する。
「宇迦之御魂神様、釜飯をお持ちいたしました」
ていねいにお辞儀をすると、浅葱色の着物の袖が、はらりと畳に落ちる。頭をあげる際には、梅の簪が耳元で擦れる音がした。
「ありがとう」
宇迦之御魂神は満足そうに、冷酒に口をつけた。
東温市の小富士だ。辛口淡麗な味わいで、たいていの和食にあう日本酒である。お客様にも勧めやすく、湯築屋でもよく出る日本酒の一つだ。
「釜飯も、松山あげですよ」
九十九はお釜の木蓋を開けて、中を示す。宇迦之御魂神は表情を明るくしながら、身を乗り出した。
「それは嬉しいのだわ。さきほどの煮物も、大変美味しかったから」
耳がぴくぴくと動いている。尻尾の揺れ方は、シロよりも優雅と言えば優雅だが、こうして見ると、やはり似ていた。
「宇迦之御魂神様は、シロ様にそっくりですね」
主に、松山あげへの反応が。
指摘すると、宇迦之御魂神は少しだけ不服そうな顔をした。
「あの子が似せやすい姿になっているだけよ」
そう言うなり、宇迦之御魂神の頭から耳が消える。尻尾も見当たらなくなり、普通の人間に近い姿となった。
「最初は、形を作るのに難儀したみたいだから……私に似せなさい。これなら、できるでしょう? と、手本を示しただけなのだわ」
ということは、この姿が本来の宇迦之御魂神なのだろう。彼女とは、ゆっくりと話す機会が少なかったので、九十九は初めて知った。たしかに、宇迦之御魂神は狐を神使としているが、狐の神様ではない。
「まあ、可愛いっていうのも、あるのよ。こういうのが最近はウケがいいのでしょう? 私も、張り切って信仰を集めたいのだわ」
再び、狐の耳がぴょこんと現れる。尻尾の揺れ方も嬉しげで、満更でもなさそうだ。
近ごろは、信仰が薄れ、人々から名前を忘れられたすえに堕神となる神様が増えていると聞く。宇迦之御魂神はメジャーな神様で、稲荷神社が全国に分布しているけれど……危機感を抱いている神様は多かった。
九十九も、堕神には何度か遭遇している。あれが神様のなれの果てだと思うと、物悲しい気分になった。
「もう、私が世話を焼かなくても、白夜は自分でなんでもできるようになったのだけれど」
結界の中ならば。
神となったばかりのころ、シロがどのような様子であったか、九十九はよく知らない。夢で見たシロの記憶でも、そこまでは言及されていなかった。
知らないことが多い。
もっと、シロ様を知りたい。そう思うのは、強欲だろうか。
「あら、また嫉妬かしら」
九十九の心を見透かすように、宇迦之御魂神は唇に弧を描いた。
「嫉妬だなんて……ただ、シロ様を知りたくて……」
「恥じなくてもいいのよ。そういう気持ちは、あなたたちにとっては必要なものだから。とくに、白夜は隠したがるところがあるし。あなたも大変ね」
宇迦之御魂神は、九十九にそっと手を伸ばす。子供にするみたいに、頭に触れられ、優しくなでてくれた。
心が無防備になっていく。
「宇迦之御魂神様は……」
九十九の口から、声は自然にこぼれた。
「シロ様を、見守りに来られたんですよね……?」
直接、そう説明されたわけではないが、察していた。だが、九十九はあえて宇迦之御魂神に確認する。
宇迦之御魂神は黙した。
肯定の意だと、九十九は受けとる。
「わたし、シロ様にご自分を許してほしくて……そのためには、天之御中主神様と話しあう必要があると思っているんです」
「そうね。それも必要なことかもしれないわ」
宇迦之御魂神は、九十九の言葉を否定しない。しかし、賛同しているわけでもなかった。彼女にも、九十九の選択が正解かどうか、わかりかねるようだ。
「別天津神は、私の大切な子らを奪った」
九十九は、はっとして目の前の神様を見つめた。
宇迦之御魂神にとって、神使のシロや、眷属の狐たちは子のようなものだ。彼女の立場からすれば、そのようになるのだろう。
九十九は考えたこともなかった。
「気にしないで。別に、だからと言って復讐だなんて考えていないわ。もう、いまさらですもの。それに、間違いを犯したのは、あの子」
宇迦之御魂神は、サラリと笑って九十九から手を離す。
「白夜が呼んだのよ。あなただけにまかせるつもりなのだわ」
「シロ様が……」
そういえば、シロは宇迦之御魂神に対して「遅かったではないか」と言っていた。
「今回も、宇迦之御魂神様がお手伝いされるのでしょうか?」
シロの過去を明かす際も、宇迦之御魂神が助力してくれた。あのときと同じように、シロは天之御中主神との対話に備えているのだろう。
「そのつもりだけれど」
九十九はキュッと拳をにぎりしめ、目を伏せる。
「あの」
けれども、言い出さずにはいられなかった。
「わたしにできることは、ないでしょうか?」
シロと天之御中主神の対話は、九十九が望んだことだ。
九十九にできることなら、なんでもしたい。
「白夜を支えてあげなさいな」
「それだけではなくて」
「それだけで充分よ」
本当に、それでいいのだろうか。
九十九の視線が次第にさがり、うつむいてしまう。助けられていてばかりでは、駄目だ。それとも……九十九が役立てることは、なにもないのだろうか。
人間には介入できる範囲がある。
神様同士の問題は、神様に委ねるほかないのだろうか。
「わたしにできることが少ないのは知っています……でも、役に立ちたくて」
余計な真似かもしれない。
神様に比べたら、九十九なんて無力だ。間に入る余地もない。
「そう」
宇迦之御魂神は、うつむく九十九の手に触れた。
「あなた、神気が変わったのだったわね」
その声音が、さきほどよりも深刻さを増している気がして、九十九は顔をあげる。
「はい……引の力が発現してしまって……天之御中主神の力に触れたからだと思います」
九十九は宇迦之御魂神に、自分の力について端的に語る。その力のせいで、トラブルが発生した事情も含めて。
「なるほど」
宇迦之御魂神は、しばらくなにかを考えはじめる。が、やがて九十九に視線を戻した。その間が長かった気がして、九十九は息を呑んだ。
「……そうね。そういうことならば、私も一肌脱ぐのだわ」
「え?」
さっきと意見が変わった。頼み込んだのは九十九だが、あっさりとした展開に拍子抜けしてしまう。
「儀式をしましょう」
「儀式?」
突然の提案に、九十九は首を傾げた。
一方の宇迦之御魂神は、自信ありげに胸を張っている。




