4.松山あげのごはん。
ほかほかと、ごはんの炊ける匂いが漂っている。
優しい出汁の香りは、九十九が好きなものの一つだった。
「五光の間、もうすぐ炊きあがるよ」
厨房に入ってきた九十九に向けて、料理長の幸一が笑いかけた。いつでも優しい笑みで迎えてくれるので、九十九も自然と穏やかな表情になる。
「お父さん、ありがとう」
湯築屋では基本的に和食を提供するが、幸一はもともと、洋食レストランの修業をしていた。けれども、湯築屋の女将である登季子と結婚することで、湯築へ婿として入っている。苦節あったと聞いているが、そんな影を微塵も感じさせない温かさが滲み出ている。
「つーちゃん、先にいただいてるよ」
厨房の端からピースサインをしているのは、登季子だ。気さくでサッパリとした笑みのせいか、年齢よりも若く見える。それでいて、しっとりと艶っぽい大人の女性の雰囲気も備えていた。
登季子は湯築屋の女将であるが、海外営業が主な仕事だ。年中、海外を飛び回って、いろんな国の神様をお連れしていた。
しかし、九十九が自分の力を使えるよう修行をはじめてからは、湯築屋にいる時間が長くなっている。登季子は神気の扱いに長けており、お客様からも一目置かれていた。
本来なら、登季子も湯築の巫女となれる才能を持っていたが、登季子は幸一との結婚を選んだ。それが原因で湯築屋を離れていった従業員もいる。
先代の巫女・湯築千鶴が急逝したこともあり、物心つかないうちに、九十九が巫女となるのが決まってしまう。
登季子は自身の選択を悔やんでいた時期もあえる。海外を飛び回り、湯築屋になかなか帰らなかったのも、九十九や幸一に引け目があったからだ。
けれども、今はすっかりと、その迷いも払拭されたように感じられる。海外営業は好きなので続けているけれど、九十九と過ごす時間が長くなった。
「お母さん、もう賄い食べてるの?」
「だって、炊きたてだから早くお食べって、コウちゃんが言ってくれたんだよ」
登季子は唇を尖らせながら、小さなお釜を示した。
「松山あげを使った炊き込みごはん。宇迦之御魂神様の分だけだと、食材が余るから賄いにしたんだ」
幸一が補足しながら、お釜を開ける。
湯気がほわっと立ちのぼり、鶏と牛蒡の香りが九十九の鼻にも届いた。のぞき込むと、たっぷりの具材と一緒に、松山あげも入っている。
松山あげは、一般的なお揚げとは違う。パリッとした状態で売られているが、水分を吸うとやわらかくジューシーになるので、汁物や煮物によくマッチする。もちろん、炊き込みごはんにも最適だ。
シロは松山あげが大好きである。シロと縁深い神様である宇迦之御魂神も、やはり好物だった。そのため、彼女には特別に松山あげを使用した料理を中心にお出ししているのだ。
「つーちゃんも、少しお食べ」
茸と牛蒡、鶏肉などが入った五目炊き込みを、幸一がお茶碗に盛ってくれる。べちょっとせず、ごはんが一粒一粒、ツヤツヤと輝いているのが、九十九の食欲を刺激した。
「じゃあ……ちょっとだけ」
お言葉に甘えてしまった。
九十九は賄い用の箸を持ち、幸一からお茶碗を受けとる。
お出汁の香りが、炊き込みごはんからも漂ってきた。幸一の料理は、いつだって優しくて、温かくて、穏やかな気分にさせてくれる。
一口食べると、しっかりとした牛蒡と鶏の味わいが先行する。そして、噛めば噛むほどに、出汁の味とコクが楽しめた。
松山あげは、出汁を吸って美味しくなるだけではない。味全体にコクを与え、まとめてくれるのだ。とくに炊き込みごはんでは、適度な油分がお米の一粒一粒がコーティングする。ふっくらとした旨味を閉じ込める役割を担うのだ。
松山あげの美味しさを存分に活かしたごはんに、九十九は思わず笑顔をこぼす。
「美味しい」
「よかった」
これなら、お客様にもご満足いただけるだろう。
頃合いを見たように、幸一がお客様の小さな羽釜を木製の釜受け台にセットする。赤だしと香の物、温かい番茶も添えた。
「じゃあ、五光の間へおねがいします」
「はい」
いつまでも食べてはいられない。仕事だ、仕事。九十九は気合いを入れなおして、釜飯の膳を持ちあげる。
「つーちゃん」
厨房を出て行く瞬間、登季子が九十九を呼び止める。九十九は何気なく、「なぁに?」と、小さくふり返った。
「ううん。大人になったなぁ、って思って」
登季子がしみじみと言うので、九十九は照れくさくなる。
「大学生だもん」
「それもそうだけどさ……ただ、今まであんまり近くで見る機会がなかったから」
そう言って頬杖をつく登季子は嬉しげだった。そんな登季子を見ていると、九十九の気持ちも温かくなる。
「これから、いくらでも見てくれていいんだよ?」
時間はたくさんあるのだから。
言いながら、九十九はサッと登季子に背を向けて厨房を出た。登季子がどんな表情をしているのか確認するのが、ちょっぴり気恥ずかしかったのだ。親子なのに、おかしいな。でも、嬉しい。
ほんのりと、心が明るかった。




