2.夢。
「あ……」
カクン、と首が前に傾く衝撃で意識が鮮明になる。
身体がガタゴトと揺れていた。いや、椅子……電車の揺れである。
「夢……かな……?」
湯築九十九はつぶやきながら、状況を確認する。
緑色の座席に、ちょこんと座った自らの身体。膝のうえにトートバッグをのせて、それを抱え込むように眠りに落ちていた。唇の端から垂れそうになっていたヨダレを、さっと袖で拭う。ずいぶんと、熟睡していたみたいだ。
年季の入ったフローリングが、足元を支えている。視線をあげると、車窓の向こうに景色が流れていた。
新しすぎず、古すぎず、生活の息づかいが聞こえてきそうな街並みだ。
いつもの景色。いつもの松山。路面電車の風景である。
九十九が暮らす日常であった。
「…………」
やはり、九十九は眠っていたようだ。
夢はよく見るのに……珍しく、夢であると気がつけなかった。
それほど疲れていたのだろうか。はたまた、なにか意味があるのか。
考えている間に、路面電車はガタゴトと大きなカーブを描く。道後公園の前を通過して、さらに奥へと進む。
終点の道後温泉駅へ辿り着いたら、降車だ。
乗客には、観光客や地元の人が入り交じっている。道後温泉は観光地であるが、人々の住む街でもある。日常使いする人は多い。九十九も、その一人であった。
駅に到着するなり、みんな一斉に出口へと向かっていく。九十九も、取り残されないよう、トートバッグを持って立ちあがった。
マッチ箱のようだと評される路面電車からおりると、道後の景色である。
レトロな駅舎をイメージした道後温泉駅を出ると、そこはアーケード街の入り口だ。広場には、カラクリ時計と足湯があり、観光客が集まっている。もうすぐ、時計が鳴るのだろう。三十分置きに、坊っちゃんと道後温泉をモチーフにした仕掛けが動くのだ。
「やあ、稲荷の妻」
そう九十九に声をかけたのは、人ではなかった。
ふり返りながら視線を落とすと、黒い猫がこちらを見ている。
「おタマ様。こんにちは」
言いながら笑いかけると、尻尾が少し短い黒猫がググッと身体を反らして伸びをした。欠伸をする口元からネコ科らしい歯がのぞく。
「お散歩ですか?」
「そういう気分になったら、散歩くらいするさ。吾輩は猫であるからな」
おタマ様は、道後温泉地区に住みついた猫又だ。アーケード街の入り口は、彼の定位置であった。
こうしていると、観光客や地元の人が餌をくれるので楽なのだという。もちろん、猫又なので普通の猫みたいに食事をする必要はないのだが……そこは、「そういう気分」というやつだろう。
おタマ様の写真をSNSに投稿する人も多く、ちょっとしたアイドルと呼んでも差し支えない存在だった。
「ふむ」
おタマ様は、前脚をチョンとそろえて、九十九を見あげる。九十九は首を傾げて、あいまいに微笑んだ。
「少し匂いが変わったようだね」
おタマ様は微笑んでいるようだった。
「そうですか? 柔軟剤は、変えていないんですが」
九十九はスンスンと、自分の匂いを嗅いでみる。すると、おタマ様が「そうではないよ」と、軽く笑った。
「力の流れが変わったということさ」
ようやく、九十九はおタマ様が言わんとする意味を理解する。
九十九は、湯築の巫女だ。
代々、稲荷神白夜命に仕え、妻となるのが習わし。九十九は、当代の巫女であり、稲荷神の妻でもある。
稲荷神白夜命――シロは、神の一柱だ。けれども、その成り立ちは特殊であった。
シロは元来からの神ではない。宇迦之御魂神に仕える神使であった。それが、天之御中主神と融合し、表裏の存在となることで、神へと変化したのだ。
天之御中主神は、天地開闢のときより存在する原初の神。そして、終焉を見届けるという役目を持った別天津神である。
天之御中主神とシロの過去を知る巫女は、九十九のほかに初代の巫女である月子だけだ。つまり、九十九は歴代の巫女よりも、天之御中主神との関わりが深い。それが影響して、九十九の中で眠っていた神気の特性が目覚めたのだ。
九十九の神気は「守り」の力であった。そして、新しく発現したのは「引」の力。神から神気を引き寄せてしまうという特性がある。
最初は無意識に力を引き寄せることもあり、周囲に迷惑をかけた。修行を積んで、今は少しずつコントロールできるようになっている。
悩んだが、これも九十九の力だ。
折り合いをつけ、向きあってかなければならない。
「人は成長が早いからね」
おタマ様はまん丸の目を細めて、また欠伸をした。気まぐれな猫らしい仕草に、九十九は思わず表情を緩める。
「いつも見守ってくれて、ありがとうございます」
「なに。吾輩は、ただここにいるだけの猫だよ」
おタマ様は前脚で顔を洗いながら答える。本物の猫と大差ない。
あいさつを終えると、おタマ様はくるりと九十九にお尻を向ける。ちょんちょんちょんと歩き去る姿に、九十九は軽く手をふった。
「また明日」
「明日もそういう気分ならね」
ああは言っているが、おタマ様はいつも九十九たちを見守ってくれる。道後の日常の一部だった。




