21.嫉妬と夢中
「若女将ぃ!」
柱に刺さった草薙剣をどうやって抜こうか思案していると、足元にギュッとやわらかいものが貼りつく。
「コマ」
心配してくれていたのだろう。九十九は、コマの頭に手を伸ばした。ふわっと温かい毛並みに、心がじんわりと和まされる。
「ご無事でよかったですっ」
「ありがとう」
抱きあげる気力がないので、九十九はそのままコマの隣にヘタリと座り込んでしまった。まぶたが重くて、全身の倦怠感が抜けない。
廊下を見ると、太鼓が用意してある。従業員はみんなそれぞれに、鉦を持っていた。天岩戸に対抗するため、踊り念仏を行っていたのだろう。壁には大きな字で、念仏が書かれて貼り出されている。カンニングペーパーかな。
小夜子や碧、八雲、将崇、幸一……みんな安堵の表情を浮かべていた。九十九の合意はなかったとはいえ、迷惑をかけてしまった罪悪感がある。
「よう帰ったきたのう」
ほいほいと、肩を強めに叩かれて、九十九は視線をあげる。
一遍上人がニヤリと唇の端をつりあげていた。ロックなサングラスは外していないが、白い着物に鮮やかな紫色の襷を掛けている。いつもと雰囲気が違っていて、一瞬、誰なのかわからなかった。
「一遍上人。ご協力、ありがとうございました」
状況を全部把握できていない九十九の代わりに、小夜子が頭をさげた。
「いいってことよ。こんな夜更けに、寺まで駆け込んできたときは、何事かと思ったんじゃがな」
言いながら、一遍上人はゴツゴツとした大きな腕時計を示す。え? これ? 午前? と、聞き返したくなる時刻を指しており、九十九は目を見開く。
そんなに長い時間、みんなに心配かけちゃったんだ……。
「気にしなくていいよ、九十九ちゃん」
九十九の気持ちを悟ったのか、小夜子は目線をあわせて座る。丸い眼鏡の下で、にっこりと優しい微笑みを作った。
「私も蝶姫も、九十九ちゃんに救われたんだから。九十九ちゃんを助けるのは、当たり前だよ」
「小夜子ちゃん……」
小夜子の影には、常に鬼の蝶姫が潜んでいる。もう一人の従業員のようなものだった。小夜子のうしろから、カンカンッと鉦の音がする。
小夜子たちの今があるのは、本人たちの拓いた道だ。九十九があれこれ世話を焼いたつもりはないし、大袈裟な気がする。それでも、彼女たちの道筋に、少しでも関われたのだと思ったら、嬉しかった。
「う……ねむ……」
しかし、九十九の体力に限界が来ていた。ずっと天岩戸で夢と現の境界を彷徨っていたのに。想像以上に、体力も神気も消耗したようだ。
まぶたが自然とさがり、身体が傾いていく。
「九十九」
九十九の身体を、シロが支えるように抱きとめた。みんなの前なのに、恥ずかしい。そんなツッコミをする気力もなくなっている。
疲れた……。
ただただ、それだけだった。
「休むか」
ふわっと、身体が浮きあがる。
シロが九十九の身体を抱いて立ちあがっていた。急なことで、九十九はとっさに声も出せない。
「な、な、ななな……」
やっとのことで発声するが、言葉になっていなかった。そんな九十九を、シロはお姫様抱っこで運んでいこうとする。
「シロ様、おろして……」
抵抗する気力もなく、九十九の声は弱々しかった。シロは九十九を見おろすように視線を落とし、唇に笑みを作る。
「ああ、おろしてやるから、ゆっくり休むがいい」
そう言って、シロは石鎚の間へと入っていく。九十九を連れたまま。
「九十九を休ませる。あとは、まかせられるか?」
ふり返り、従業員たちに告げた。誰も異を唱えず、笑顔で「はい」と素直に従っている。いやいやいや、なんかこう、母屋を勧めるとか、シロ様が介抱する必要ないですよとか、そういうのないんですかね?
「なんで、石鎚の間なんですか……」
さっきまで、天岩戸だった場所だ。わざわざこんなところで休まなくともいいではないか。
九十九の問いに、シロは表情を変えない。うしろでは、自動ドアみたいに客室の木戸が勝手に閉まった。
「結界の穴が埋まるか、念のため留まって確認しておきたいからな」
シロの回答はごくごく事務的であった。たしかに、結界に空いた穴は塞がなくてはならない。ケアは必要だろう。だからと言って、どうして九十九と休みながら行わなくてはならないのだという話である。
抵抗もできず、九十九は畳におろされた。
うしろから、シロが抱きしめるように、膝のうえに座らされる。なにこの恥ずかしい体勢、まったく休めませんけど。
でも……妙に落ちつく。
小さいころは、こうやってシロの膝にのっていた。
寂しくなったら、いつも。
女の人みたいに綺麗な顔なのに、こうして抱かれていると、腕も肩も、たくましくて力強い。
うなじや耳元に感じる息づかいが近くて、なにもしていないのにドキドキしてくる。
「九十九」
「は、はいぃ!」
囁く声がこそばゆくて、つい変な声で返事をしてしまう。しかし、背筋を伸ばした瞬間に、肩の辺りでガチッと変な音と衝撃が走った。
「…………ッ」
「ごめんなさい!?」
どうやら、九十九の肩が顎にヒットしたらしい。シロはうつむきながら、口元を押さえている。
「うわ、すみません。舌とか、噛んじゃったんですか?」
そんなつもりはなかった。いつもの過剰スキンシップからのアッパーなら罪悪感はまったくないが、不可抗力である。
九十九はシロの膝からおりて、向きあうように座った。まだ頭はぼんやりしているが、少しなら動ける。
「血が……」
舌を噛んで、血が出てしまったのだろうか。シロはつぶやきながら、顔をあげる。
「!?」
けれども、次の瞬間。
九十九は言葉を失う。いや、塞がれてしまった。
素早く迫ったシロとの距離がゼロになる。
唇が触れ、吐息が交わった。
目をまん丸にしてシロの顔を見ると、少しニヤリと笑っているようだ。こいつ、確信犯か。九十九は両手でシロの胸をぐいぐい押すが、まったく効き目はない。
シロの右手が九十九のうなじを支える。身体がうしろへ傾いていき、呆気なく畳に転がった。
冷たい畳の目と、温かいシロに挟まれて、なにも身動きがとれない。しかし、シロが何度も何度も、九十九の髪や頬をなでるので、次第に抵抗の意思が削がれていく。流されるように、九十九も目を閉じてしまった。
胸の奥が熱くて、それが血管を通じて全身へ行き渡っていくみたいだ。なにも痛いことはされていないのに、身体がビリビリと痺れてくる。薬を飲まされて、感覚を麻痺でもさせられているようだった。
こんなの不意打ちです。こういうのは、もっと……大人になってから……でも、もう大学生だし……それに……なんか……。
唇をずっと塞がれているので、なにも言えない。言葉はすべて、九十九の心の中に押し込められた。
「ん……」
ようやくシロの顔が離れたので、九十九は口元を手でガードする。シロは九十九を見おろしながら、ニマニマと笑っていた。意地の悪い笑い方なのに、妖艶なのが憎らしい。
「ち……血なんて出てなかったじゃないですかッ!」
強がって抗議すると、シロは唇を尖らせる。悪戯がバレて拗ねたみたいな顔をされると、逆に尻込みしてしまう。
「嫌がってはいなかったではないか」
「そ、そんな」
嫌がっては……嫌ではなかった。
シロにキスされて、こうして押し倒されているのは、思っていたよりも嫌ではない。むしろ、少し身体が離れて名残惜しいと思う自分までいて……でも、それを認めてしまうのが嫌で、これ以上、顔を見られたくなかった。
九十九はなにも答えられずに、両手で顔を隠す。
「九十九、おかわり」
「いーやーでーすー……!」
「嫌がり方がヌルいな。これでは、無理やり接吻してしまえるぞ」
「シロ様はそんなことしないです!」
さっき、騙し討ちされたけど。
指の間からシロをうかがうと、困った表情を浮かべていた。
「そう言われてしまうと、裏切れないではないか」
シロはしばらく、九十九を見おろしていたが、やがて九十九のうえから退く。九十九は、のそのそと身体を起こしながら、乱れた髪を整える。
「九十九と床をともにできるのは、いつの日やら」
「う……」
夫婦なのだから、そういうこともある。考えないようにしていた項目に、九十九は頭が回りそうだった。
そういえば……九十九は湯築の家系図を思い出す。
代々、巫女が選ばれ、シロの妻になる。そのため、巫女は家系図から外されてしまうという慣習があった。正確には、欄外に別記されるのだ。
だから、巫女とシロとの間に子がいたかどうか、わからない。
そういうことを……今までの巫女とも、行ったのだろうか。
急に気になって、九十九はうつむいてしまった。
「シロ様って、その……お子様とか、いらっしゃら、ない? ですか?」
なんという聞き方だ。こんな聞き方をするくらいなら、黙っていたほうがよかったかもしれない。
「あー、忘れてください! 聞かなかったことに!」
九十九は、どうしようもなくて首をブンブンと横にふった。
「いや、聞いてしまったぞ? 九十九の可愛い話を、なかったことになどしたくないのだが」
シロの口調は、ちょっと呆れているようだった。
「おらぬ。そもそも、人の子が生まれるのとは原理がまったく違うのだ。神使くらいなら生み出せるが、別段、必要もないからな。使い魔を子と呼ぶには、あまりに性質が違うだろうよ――九十九、子が欲しいのか?」
あ、いないんだ……と、ほっとしてからの質問に、九十九は頭が真っ白になる。
「そ、そうじゃ、ない、ですけど……ただ、気になっただけで」
「なるほど。では、嫉妬しておるのか?」
ドストレートな聞き方に、打ちのめされそうだった。人が弱っていると思って、今日のシロはいちいち直球すぎる。スキンシップが過剰なのは、いつものことだが、こちらにも気持ちの余裕を持たせてほしい。
「儂は九十九の布団にしか侵入したことはない」
いや、言い方。
ツッコミが喉まで出かかったが、九十九は呑み込んだ。そして、意味がわかってくると、どんどん恥ずかしくなってくる。
「嫉妬しておったのだろう?」
意地悪な言い方で、シロは九十九に顔を近づけた。九十九はなにも言い返せずに、背中を丸めて黙り込む。
「……悪いんですか」
だって、そうだ。シロは何人も妻がいる。九十九はその最後尾なのだから。
他にも……同じことをしているのか気になったって、しょうがないではないか。
「よくないって、わかっていますよ」
月子の話を聞いたときだって。
月子がうらやましかった。
こんなこと、考えちゃいけないのは理解している。夢の月子だって、もう死んでしまったのだから気にするなと言っていた。
それでも、九十九は月子がうらやましかったのだ。
シロが選択を誤ってしまうほど――永い永い時間、一人だけを捜し求めて過ごすほどに。こんなにシロの心を動かし、独占し続けていた。
できれば月子になりたい。
しかし、こんな汚い感情をシロの前で露出したくなかった。ずっと秘めて、我慢してきたのだ。
それがいまさらになって、見透かされたような気がして、ここから逃げてしまいたかった。
「よくないことなのか?」
シロは不思議そうに首を傾げた。吐息が重なるくらい顔が近くて、目をそらすことすら許されない。
琥珀色の瞳に、九十九の顔だけが映っている。鏡を見せられている気分になって、肩が震えた。
「それだけ九十九が、儂に夢中で嬉しい」
だから、言い方……。
普通にしていたら情緒が消し飛びそうなのに、そうはならない。真剣に九十九だけを見ているシロを前にしたら、流されてしまいそうだった。
シロは九十九の頭を軽く押さえながら、額をこつんとすりつける。鼻先が触れ、くすぐったかった。
「九十九は、いつも他人や客のことを考えているからな。もっと、儂について考えていてほしい」
「そんな……」
そう言われると、ぐうの音も出ない。けれども、九十九は有り様を変えられそうにないので、どうしようもなかった。それは、きっとシロも同じなのだろう。




