20.姉弟喧嘩は神も食わぬ
「…………!」
けれども、美しい絵画のような対峙は長く続かない。
九十九が気がついたときには、すべて壊されようとしていた。
「姉上様」
シロが破り、こじ開けた天岩戸の裂け目。
そこから飛び出した影が、天照の背後に迫っていた。
「気は済んでやがるでしょうがッ!」
天岩戸に飛び込んだのは、須佐之男命であった。外から勢いでもつけていたのだろうか。真横に跳ぶような蹴りが、天照の後頭部目がけて炸裂していた。
天照が察知してふり返るが、遅い。草薙剣で顔面をガードするので精一杯であった。
「須佐――」
天照の身体が勢いよく撥ね飛ばされる。少女の身体が見事に後方へと投げ出され、客室の木戸を突き破っていく。廊下を飛び越え、庭へと。
天岩戸はすでに揺らいでいた。内側から天照の身体がぶつかった衝撃で、完全に崩れてしまったのだろう。辺りに漂う神気が薄れ、シロの結界へと変じていく。
「須佐之男!」
庭へ放り出された天照が身体を起こし、甲高く叫んだ。邪魔をされて怒っているようだった。
対する須佐之男命は、指の関節をパキパキと鳴らしながら石鎚の間を出て庭へとおりていく。
「姉上様、気は済んでいやがるでしょう。とっとと撤収なさいませ」
須佐之男命が、正論を言っている。いや、まったく正論を言わないわけではない。ただ、姉神を相手に、このような態度の須佐之男命を見るのが初めてで、九十九は意外に感じてしまったのだ。
「いいところでしたのに。このような水の差し方、ございますか!?」
「ございます、ございます。今、俺が致しました」
「空気を読めと言っているのですよ。開きなおらないでくださいませ!」
天照は喚き散らしながら、渾身の力で、手にしたものを須佐之男命に投げつけた。草薙剣だ。ええ、三種の神器、そんな雑に投げないでくださいよ!
須佐之男命は軽く首をそらして避けるが、草薙剣はサクッと湯築屋の柱に刺さる。本当に、当たるか当たらないかギリギリのラインだった。
「あっぶな! 危ねぇんですけどぉ! これ刺さったら、痛ぇだろうが。いい加減にしやがれくださいよ!?」
「痛がりなさいな!」
痛いで……済むんですか……姉弟のやりとりに、九十九はポカンとしてしまう。
言っている内容の端々が神様スケールなのに、喧嘩の中身は犬も食わぬものであった。
「聞き分けやがれください。もう充分でしょう」
「なぜ、あなたにそんな正論で説教されねばならないのですか! 腹が立ちますわよ!」
天照の言いたいことも、もっともであるが、聞き分けないのは彼女自身だ。というより、須佐之男命に蹴り飛ばされて、あとに引けない空気があった。
「だいたい、あなた……わたくしの雑誌に落書きしたでしょう! 気づいていないと思いましたか?」
「あ……バレてやがった……いやそれは、悪いなぁって今は反省してますけど。新しいの買ってきますから、機嫌なおしてくださいませんかね」
「あなたは、またそうやって」
最初は物騒だった言いあいも、徐々にいつもの調子へと戻っていく。
「わたくしがなにもかも許すからって、甘えて……」
天照はうつむきながら、声をすぼめていった。須佐之男命は、そんな天照を見おろして頭を掻いている。身体の大きさのせいもあってか、どちらが上なのか、傍目からはわからない対面だろう。
「そうですわね。少々、やりすぎました」
やがて、天照は浅く息を吐く。
「稲荷神、充分に輝きは見せていただきました。大切な宿で狼藉を働いてしまって、申し訳ありません」
改めて背筋を伸ばし、天照は顔をあげた。
シロは解放された石鎚の間から歩み出て、天照を見おろしている。九十九も、ふらつきながら入り口まで歩いた。
「狼藉か……」
シロの声は、やや平坦であった。感情が読めず、九十九は不安になる。
天照は湯築屋で結界の弱点を突き、天岩戸を発現させた。これは従業員や他のお客様を害する者には容赦しないというシロの立場と相対する。
本来ならば、天照は客ではない。
しかし、それは九十九のためである。天照は、九十九とシロのためにこのような大がかりな芝居、いや、茶番を決行したのだ。
シロはしばらく黙したまま、腕を組んでいた。
「我が妻をさらい、宿の業務を妨害した件は、許しがたい」
シロが明朗に告げるのを、天照はなにも言わずに聞いていた。
「だが……礼は言う」
はっきりとしていた声が、やや小さくなる。素直にお礼を言うのが癪というニュアンスが伝わってきて、周りで聞いていた従業員がクスリと笑う。九十九も、自然と笑顔になった。
格好がつかなくなって、シロは軽く咳払いする。
「こちらこそ、ありがとうございます」
天照は慎んで、ていねいに頭をさげた。けれども、その身体が前に向かって、すうっと倒れていく。
「姉上様」
須佐之男命が、天照の身体を抱きとめるように支えた。
結界を張り、さらに破られたことで、神気を消耗したのだろう。天照の顔には疲労の色が濃かった。このような天照を、九十九は初めて見る。
「湯治しろ」
湯築屋にも引かれている道後温泉の湯には、神気を癒やす力がある。天照を引き続き、客として宿泊を許可するというシロなりの許しだ。
「重ね重ね」
天照は、再び礼をした。
「お役に立てましたでしょうか?」
問われて、シロはなにも答えなかった。ただ、九十九に視線を向けて黙っている。
けれども、九十九にはシロの返答がわかっていた。
「天照様、ありがとうございます」
だから、シロの代わりに九十九が頭をさげる。シロは「余計な真似を」と口を曲げていたが、構わない。
華奢な天照の身体を、須佐之男命が抱きあげて運んでいく。
「須佐之男、もっとていねいに扱えないのかしら」
「はあ……と、言いますと?」
「察しが悪いですわね。姫のように、ということですわよ」
「姫? ああ、赤ん坊ですか! よしよし!」
「そうではなくてー!」
天照は須佐之男命に文句ばかり言っているけれど……どこか嬉しそうに見えた。
ほんの少しだったが、天照と須佐之男命は、本気で喧嘩をしたのだ。あまりに低レベルだったかもしれないが、こんな機会はあまりなかっただろう。お互いに、どこか清々しい雰囲気であった。
「あ、若女将。それ、また宅配便でよろしくおねがいします」
去り際、柱に刺さった草薙剣を宅配便で送れと言われたのは、さすがに苦笑いだ。だから、三種の神器を宅配便で送れなんて言うくらいなら、自分で戻してくださいよ! と、いつも思う。
どうせ、また無断で持ち出したので、自分で返しに行ったら言い訳が面倒なだけなのだ。天照の奔放さにも、慣れていた。




