19.神話の対峙
「ふ……」
九十九の身体が重くなる。急速に、夢から現実へと戻っていく感覚に、目眩がした。
二本の足で立っていられなくて、身体がよろけてしまう。
「畳……?」
うずくまった九十九の足元は、湯築屋の庭ではない。虚無の藍色でもなく、客室の畳であった。
視線を移すと、工作用のハサミやテープも落ちている。
夢から醒め、石鎚の間へ帰ってきたのだ。
手には、夢の中で使った羽根の弓がにぎられたままだった。
あれは夢であり、夢ではなかった――九十九は現実の世界で、天之御中主神の羽根を、いや、自分の力を使ったのだ。
ここは天岩戸。あらゆる神の力が弾かれる結界である。
九十九は自分の力で、夢から抜け出して現実へ戻ってきた。月子や登季子との修行では成せなかったことだ。
初めて……。
「なんで」
だが、不可解でもある。
九十九の神気の特性は、守りの力。そして、後天的に発現した引き寄せる力だ。この弓は、どちらの特性にも属していない気がした。そもそも、どうして弓の形になったかも、九十九にはわからない。
身体が怠いのは、夢から起きたからか。それとも、身の丈以上の力を使ったからか。気がつけば、肩が上下して息が荒くなっていた。すぐに立ちあがれなくて、九十九は両手を畳についてしまう。這いつくばっているみたいで、惨めだ。
「大丈夫ですか」
天照は立ちあがっていた。
手草を持ちあげ、凜とした表情を作っている。口元は余裕を描いているが、目には警戒の色が浮かんでいた。
「な、なんとか……」
九十九は壁に手をつき、身を起こした。透明な弓は消え、もとの白い羽根へと戻ってしまっている。
全部夢だったのではないかと錯覚しそうだ。現実という感覚が、まるでない。
「……音楽?」
かすかに聞こえる音色。九十九は聞き逃すまいと、耳をすませた。
どこからか、鉦のような音が流れてくる。太鼓も……お祭りみたいな雰囲気だが、なにかが違う。耳慣れているようで、耳慣れない。
天岩戸の内側ではない。
外からの音であった。
「どうやら、外も準備が整ったようですね」
天照は嬉しそうであった。大きな目を輝かせている様が、宝箱を前にした可憐な少女そのものだ。これからなにが起こるのか、本気で楽しもうとしている。
音色はだんだんと大きくなっていく。
祭り囃子にも似たそれは、嫌に馴染む。太鼓の音にあわせて、神気の流れが少しずつ揺らいでいった。
天照の神気によって守られた天岩戸。あらゆる神を拒む鉄壁の結界に、歪みが生じていく。
「あ……」
この音。
九十九は、はっと思い当たる。
「念仏?」
太鼓と一緒に、何人かの声も聞こえた。歌ではない。一心に、なにかを唱えているのだと気づき、九十九は目を瞬かせる。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるその声は、おそらく従業員たちだ。部屋の外で太鼓を叩き、鉦を鳴らし、念仏を唱えている。
それに呼応して、天岩戸の神気が揺らいでいるのが、異様な現象であった。
九十九と天照の間の空間に、一筋亀裂が入る。
空気が裂けるみたいに割れて、浄化されそうな白い光が漏れた。
「え」
そこからあふれ出す神気に呼応して、九十九の懐でなにかが動く。着物の胸元を探ると、肌守りが二つ出てくる。
一つは、シロの髪をおさめた肌守りだ。依り代にし、シロの神気を駆使するために必要なものだった。
もう一つは、天之御中主神から授けられた肌守り。こちらには、九十九の髪がおさめられており、力を制御するために使う。
さきほどの弓。
九十九は、天照の夢を壊した。そう思っていたが、違うのではないか。
無意識のうちに、九十九は弓を引くことで――外から神気を引き入れていた。
「まさか、神が天岩戸に挑むだなんて」
天照は蕩けるような笑みで、白い光を見据えていた。だが、一方で手草をかざし、ふりおろす。手草は一瞬で灼熱を帯び、青銅の一振りへと変化する。
草薙剣。
三種の神器として伝わる剣だ。熱田神宮におさめられている。須佐之男命が天照に献上したとされる剣だ。
厳密には、熱田神宮に伝わる草薙剣は一度失われているのだが、天照が扱う場合は効力に違いがないらしい。あくまで、神器は神気を込める依り代であり、神気に耐えうるだけの器であれば、なんでもいいようだ。
天照が草薙剣をふりおろす。離れた位置にいる九十九にまで熱気が伝わる。あんなもので斬られたら、人体など蒸発しそうだ。それを扱う天照も、常軌を逸している。何度見ても、神話の領域だった。
しかし、草薙剣による一太刀は、途中で停止する。
空間の亀裂から、腕が出ていた。
「シロ様……?」
遅れて、それがシロの腕だと判断がつく。白い光を放つ裂け目を潜るように、シロが押し入ってくる。
天岩戸が、破れた。
さきほどよりも、太鼓や念仏の声がはっきりと聞こえる。
一遍上人の踊り念仏だ。南無阿弥陀仏と唱えれば、極楽浄土へと導かれるという教えのもと開かれた時宗。
神と仏は似た存在だが、性質が異なっている。神気と瘴気を併せ持った鬼や、幽霊、妖たちが別の理で存在しているのと同様、明確に区別されていた。
人が自らの力で悟りを開きいて至るのが仏だ。神が救わぬ者もすくいあげる信仰であり、定義は宗派によって様々。特に、何人も救うという理想のもと念仏を広めたのが一遍上人である。
神の力が通用しない天岩戸。神ならざる力――念仏を唱え、祈る人の力が結界を揺るがしたのだ。そこへ、九十九の力があわさって、シロを天岩戸に引き入れるのに成功した。
天照はシロの結界の穴を突いている。
逆に、シロも天岩戸の弱点を利用したのだ。
一つひとつの力では、たとえ弱点だったとしても無力だろう。しかし、それぞれの要素があわさって、絡みあうことで突破するに至ったのだ。
それでも、九十九には一点わからない。
「シロ様……天之御中主神様は」
夢の中で、九十九は自分の力を使った。
しかし、最初は天之御中主神が助力したように感じたのだ。九十九が夢で羽根を持っていたのは、天之御中主神がそうさせたからだろう。
夢では天之御中主神と繋がっていた。天岩戸にいても、あの神は九十九に夢を通じて語りかけていたのだ。
天之御中主神が、天岩戸を破る助力をしたとすれば、シロは――。
「すまぬ、九十九」
天岩戸へと完全に侵入し、シロの姿が露わになる。
シロは九十九に視線をくれるなり、短くつぶやいた。その謝罪は、「すぐに助け出せず、すまぬ」という意味ではないと思う。
「九十九が望むような対面はしておらぬ」
シロは天之御中主神に、助力を請うたはずだ。そうでなければ、天之御中主神が力を貸すはずがない。あの神は、九十九たちに選択を用意するだけだ。
対面はした。
しかし、九十九が望むような……互いの存在を認めあうような話をしていない。そういうことなのだろう。
少し残念なのかもしれない。
いや、そうだろうか。
九十九には、そうは思えなかった。
「大丈夫ですよ、シロ様」
身体に力が上手く入らない。声が震えて、弱々しくなってしまう。
それでも、九十九は精一杯の笑顔を作った。
「次は、わたしがついています」
シロがきちんと天之御中主神と向きあってほしいのは、九十九のねがいだ。九十九が、シロにそうしてほしいから。
シロだけには背負わせない。九十九が一緒に……いや、架橋になる。
だから、今はこれでいい。
なによりも、シロが天之御中主神と協力して天岩戸を破ったのが嬉しかった。
「念仏に、巫女の力、別天津神の助力……なるほど、どれも小さくて弱い。それでも、天岩戸を打ち破る力となってしまった。素晴らしい輝きではございませんか。わたくしの期待値を超えておりますよ」
天照はうっとりとして、しかし、草薙剣をふりながら笑う。
燃える灼熱をまとう草薙剣を、シロは右へ左へとかわしていた。
「充分、見せていただきましたが、欲もございます」
舞うように優雅であった。まるで、神事に捧げる神楽のように、天照は身を翻しながら草薙剣をふる。
得物を持たぬシロは、避けるばかりで間合いに入れない。天岩戸への侵入はできたが、まだ結界は消滅していなかった。まだ天照の領域と言ってもいいだろう。
「シロ様!」
九十九には、なにもできない。力もたくさん使って、壁伝いに立っているのがやっとである。
シロはどんどんうしろへさがり、壁へと追い詰められていく。
なのに、シロの表情は涼しいままだった。苦戦をしているという気配をまったく感じさせない。こちらも、舞かなにかのように、優美で耽美で……ため息が出そうだった。
九十九になにかできるはずもない。
神話の一場面のような両者に、ただただ見惚れるしかなかった。




