17.在りし日の夢
また眠ってしまった。
九十九は自覚しながらも、いつ意識がなくなったのかわからない。そもそも、天岩戸に入ってから、どの程度の時間が流れたのかも謎だった。
天岩戸では、夢と現実の境界があいまいなのかもしれない。起きていると思ったら、すぐ夢へと戻されてしまう。逆に、夢から現実へと、スッと移っていくこともある。ずっと起きていることも、寝ていることも不可能なのだろう。
ただ、近くには常に天照の神気を感じていた。温かくて大きくて、優しく包んで守ってくれるような神気だ。夢うつつでなにもかもが安定しないのに、それだけで安心していられる。
九十九の目の前を、通り過ぎていく影があった。
女の人。
月子……に、似た面影を持つ人だ。黒い髪や、凛とした表情はよく似ている。けれども、別の毛色の神気をまとう。
湯築の巫女だと、直感した。九十九よりも、もっと以前に巫女をつとめた女性なのだろう。小袖の衣や髪型から、現代ではないのが伝わった。湯築屋に残っているアルバムでも見たことがない顔だ。
巫女は代々、女将も兼任してきた。彼女が働く姿は、きびきびとしていて、九十九も憧れる立ち振る舞いだ。
ここは、かつての湯築屋だろうか。部屋や建物の様子が、現在とはずいぶん異なる。そういえば、今の湯築屋の姿は、明治時代に道後温泉本館が大改修を行った際に決まったと聞いた。本館の姿を見たシロが、湯築屋も似た建物へと変えたのだ。
九十九は、なんとなく巫女について湯築屋を移動した。夢の中だから、誰も九十九に気がつかないし、触れることさえできない、シロの過去を見せてもらったときと同じだ。
「あ……」
九十九の視界に、見覚えのある姿が入る。
絹束のごとき白い髪に、大きな獣の耳。長い尻尾を揺らす様は、今となにも変わっていない。琥珀色の瞳は、月も星もない空を仰ぎ、手にした盃を傾けている。
濃紫の狩衣は初めて見る装いだが……シロであった。時代によってシロの衣も変化しているのだろう。しかし、容姿はなにも変わっていない。九十九の知るシロであった。
「あれ?」
巫女がシロのそばを通りすぎる。だが、シロはその巫女に一瞥もくれなかった。ただ独りで、酒を楽しんでいる。巫女のほうも、とくに気にする素振りもなさそうだった。
お互いに、興味がない。そんな気配を感じた。
湯築の巫女はシロの妻だ。
けれども、そこに恋愛感情がある必要はない。政略結婚のような……ビジネスライクな関係だと、九十九も理解している。
夢が揺らぎ、湯築屋の様相が移った。
少し時代が進んだのだろうか。シロの服が、藤色の着物に濃紫の袴という装いになっている。装束が変化しても、まとう色や雰囲気はそのままだ。シロという神様が不変であるという象徴のようにも感じた。
「シロ様」
シロに呼びかける女性がいた。やはり似た雰囲気を持っている。
この人も、巫女なのかな……。
だが、さきほどの巫女とは雰囲気が違った。シロに穏やかな表情を向け、手になにかの包みを持っている。
シロのほうも、優しげな眼差しを巫女に向けていた。
「巷で流行っているそうですよ。よろしかったら、お使いください」
朗らかに笑いながら、巫女が差し出したのは煙管であった。
「ふむ……」
シロは興味深そうに煙管を手に取り、ながめる。気に入ったようだ。
羅宇の部分は変わっているが、雁首の意匠は現在のシロが使っているものと同じだ。このころから、シロは煙管を愛用していたのだろう。
「これが、粋な男という奴か?」
煙管を吸うふりをしながら、シロはふふんと胸を張った。その仕草が、今とあまり変わっていなかったので、九十九は思わず噴き出す。
「はい。粋でございますよ。天照様にご自慢できますね」
「天照は、また二枚目だか三枚目だか知らぬが、役者にうつつを抜かしておるからな。儂を田舎くさいなどと言いよって」
「シロ様は、並みの歌舞伎者よりもお美しいですよ」
「そうであろう?」
歌舞伎……天照様、昔からそうだったんだぁ……シロと巫女のやりとりに、九十九は苦笑いする。
巫女とシロの会話は想いあっている、という雰囲気ではない。が、互いに認めあって、寄り添っている空気を感じた。家族のような関係なのだろう。
シロは、いつだってシロだ。
しかし、巫女との距離は相手にあわせているのだろう。距離を置くことも、家族のように接することもある。巫女によって、適切な距離を見極めているのだ。
そうやって、何人もの巫女を見送ってきた。
九十九は知っている。シロが心を許したのは、今まで月子だけだった。月子を求めて、湯築の巫女たちと契りを結び続けている。九十九と出会うまで、ずっとずっと、そうやって過ごしていた。
シロは、どのような気持ちで巫女たちと過ごし、見送ったのだろう。
それはひどく寂しいのではないか。
永く寂しい時間を、シロは過ごしてきた。巫女だけではない。従業員や、湯築屋に関わる人。何人も何人も、見送っている。
シロは変わらない。訪れる神様たちも、変わっていないかもしれない。
けれども、かえってそれが残酷にも感じられた。
「シロ様」
九十九は、シロに触れようと手を伸ばしたが、夢の中では届かない。九十九の指は、シロの肩をすり抜けた。
九十九の選択は、間違っているのだろうか。
シロは永遠と呼べる時間を生きるのに、九十九は過ぎ去ってしまう。シロはようやく、九十九に心を許したのに……九十九は永遠を選ばなかった。
正しいはずだ。納得して、そう決めた。
なのに、シロを見ていると、揺らいでしまう瞬間がある。
「選びなおしますか?」
どこからか、優しげな問いかけが聞こえた。
子供をあやす母みたいな声音だ。
しかし、その内容は試されていると感じた。




