16.面白いの
「あのさ」
須佐之男命だけが、シロのあとを追ってくる。
「姉上様がご迷惑をおかけしました」
珍しく、ていねいな口調であった。
須佐之男命は頭を掻きながら、やりにくそうに目をそらす。
「こんなやり方、たぶん……俺のせいだと思うんで」
此度の原因が自分であるという話ではない。
天照は高天原で、須佐之男命と争えなかった。本気で衝突するつもりだった須佐之男命をかわし、天岩戸へと逃げている。
それは天照に原因があったのだろう。弟神と衝突し、向きあう勇気がなかった彼女に非があるとシロは思っている。
けれども、須佐之男命は己にも非があったと感じているのだろう。最終的に、彼は当初否定していた人間を認め、助けている。やがて製鉄の神としても信仰され、人々の発展にも寄与していた。天照の正しさを認めた形だろう。
そのうえで、どうしてあのときわかりあえなかったのか、今でも後悔している。
後悔を互いに引きずっているからこそ……天照は今回、九十九に力を貸した。
わかりあえぬまま永いときを過ごすシロと天之御中主神を憐れんだのかもしれない。天照と須佐之男命のようにはしたくなかったのだろう。
「他の神に世話を焼かれねばならないのも、情けない話だ」
「まあ……そう言われると、俺も受売命や天手力男神には頭があがらねぇんですけど」
天照を岩戸から出すのには苦労させられた。一応、迷惑をかけた自覚はあるようで、須佐之男命は苦笑いを浮かべる。
「姉上様が逃げやがって、まあまあショックだったんですよねー……」
須佐之男命は天照と争う――喧嘩をするつもりであった。自分の庇護する森林が傷つけられるのを見過ごせず、本気でぶつかったのに、天照は逃げてしまった。
「天照はお前を一度、殴ったほうがいいと思うのだがな。九十九はいつも、儂を殴り飛ばしてくれるぞ」
「姉上様は、お優しすぎるんです」
「甘いの間違いだろうよ」
天照は、人間を選んだ。しかし、須佐之男命の守りたいものも理解し、尊重していた。彼女が愛する人間が、木々を拓き山を削っていく未来も、見えていたのだろう。今の文明は、須佐之男命が危惧したとおりになっているのかもしれない。
湯築屋を開いたとき、須佐之男命は一本の木を寄越した。
地上におりた須佐之男命は、人間たちを許している。天照の言わんとしたことを理解し、考えを改めた。そんな彼が、自らの毛を湯築屋に植えて木にしたのである。
最初はなんのつもりかと思ったが、後にしてシロも理解した。
湯築屋は、人と神を繋ぐを場だ。
人の営む湯屋に、神々が訪れる。架橋となれるようにと、須佐之男命はここに木を植えていった。その木は湯築屋の幻影の一部と一体となりつつも、今現在も生きている。
天照は須佐之男命と向きあおうとしない。しかし、須佐之男命は彼なりに天照を理解していた。
やはり、この二柱は一度、殴りあいでもしたほうがいいのではないか――しかしながら、その場所として湯築屋を貸すのも気がのらないので、シロは強く勧めない。
「姉上様をよろしくおねがいします」
柄にもなく、できた弟のような態度をとられると、こちらの調子が狂う。頭をさげられ、シロはため息で返した。
「よい。疾く行け。儂は忙しい」
雑に対応したのに、須佐之男命は清々しい顔で去っていく。
湯築屋の庭に、シロは独り。
幻影の雪が続いているが、積雪量があがることはない。静かに舞う白は、花びらかなにかのようであった。
全部、シロが創り出した幻だ。紛いものである。
シロはスッとまぶたを閉じた。
「不本意だが」
九十九のためだ。と、言い聞かせておかねば、このようなことはしない。
辺りが、シンと、水を打ったかのごとく静まり返る。
すべてが消え失せ、虚無となる感覚。五感が伝えるあらゆる気配が遮断され、なにもかもが沈黙していく。
再びまぶたを開けると、眼前には虚無が広がっていた。
闇とも光とも言えぬ、黄昏の藍の瞬間を映したかのような空間。
何者も招き入れず、なんの幻影も創り出さず、湯築屋が存在しなければ……ここが、本来、シロの住む場所であったかもしれない。
そこへ、白い影が一筋舞い降りる。
水面に立つ水鳥のごとく。
白い羽のはためきだけが、空間を震わせた。墨色の髪も、まとった衣も、重力に抗うかのようにひらひらと揺れている。
紫水晶を宿した瞳が、こちらを向いて微笑した。
忌々しい――が、シロと表裏の存在。本質的には、同一の神である。
『我を呼んで、どうする気かの』
天之御中主神の口ぶりは、試すようであった。嘲られている気がして、それだけで吐き気がする。
「わかっておるだろうに」
『其方の口から聞くことに、意味があるのだろう』
シロの目的など、天之御中主神には筒抜けだ。だのに、わざわざ問われる意味がわからない。ただ戯れているだけだろう。
「九十九を救いたい……方法は、従業員にも説明しているのを聞いておったろう?」
『然り。で、其方は我になにを望む?』
あくまでも、能動的には動かない。天之御中主神は、そういう神だ。此度もやはり、シロの選択を待っているのだった。
シロは、わずかに目を伏せる。
浅く息を吐き、吸うと、思考がいくらか明瞭になった。
「儂に力を貸してほしい」
九十九に危機が迫ったとき、シロは天之御中主神の力を頼った。結界の外へ、シロは行けない。檻を開け、天之御中主神を外へ出す形で。
今回は違う。
これは……九十九が望む形での対話ではないだろう。天照も、輝きとは認めぬはずだ。しかし、シロにとっては初めての要求であった。
『ふむ。その選択――』
天之御中主神が、奇妙に口角を持ちあげた。興味深そうにシロを見据えて、笑っている。シロの選択に驚き……満足しているようだった。
従業員たちが、今、天岩戸を破る準備をしている。
シロも相応の覚悟をしなければならない。




