15.責任
湯築屋の営みは、人にとっては永い歴史であろう。
宿屋という形をとったのは、時代がくだってからとなるが、この地には神が集まるようになっていた。それは、結界の内に留まることで、天之御中主神が定住したからだ。
最初の来訪者となった神は、天照大神であった。
結界に守られた湯につかりたいと、女神は微笑んだ。シロはそれを許し、天照を結界の内側へと呼んだのである。
人間にとっては、何代も前の神話の時代だろう。
だが、シロにとっては、ほんの少し前の出来事のようだ。
――ここはよいですね。輝いております。
初めて訪れた天照は、湯築屋をそう評価していた。
月子を優先して理を曲げたシロの選択も。
檻に入り、留まる天之御中主神の選択も。
神々に湯を開き、招き入れたいと考えた月子の考えも。
すべてを「愚かしい」と評価したうえで、「輝かしい」と愛でた。
シロにはよくわからなかった――というより、天照の言う輝きに興味がない。他の神々だって、そうだろう。
「天照様に輝きを見せるって……」
場所を石鎚の間から移し、従業員でテーブルを囲んでいた。学校を終えて出勤した小夜子や、厨房にいた幸一や将崇まで、総出になっている。
コマが頭を抱えながら、うんうんとうなっていた。
「うーん……うーん……やっぱり、岩戸神楽がいいんでしょうか?」
それくらいしか思いつかぬという様子だった。
「踊ってみてもいいと思いますが、湯築屋で一番お上手な若女将が不在ですから……高得点を狙えるかどうか、怪しいのでは?」
うなるコマの提案を、八雲が冷静に評価していた。たしかに。たとえ、天照が舞を所望していたとしても、主力である九十九がいないのは痛い。
コマが、しゅんと項垂れた。
「さっきも言ったけど、やっぱりそうじゃねぇんだよな。姉上様の輝きって」
いつも宅配便でやっているダンスは、あくまでお遊びだ。天照の趣味であって、真に求めるものではない。
須佐之男命が釈然としない顔で腕組みしている。
シロも、須佐之男命の側に考えが近かった。癪だが。
「天照は神だ」
シロのつぶやきに、一同が首を傾げた。真意を誰も理解していない。
「あれが〝輝き〟と評価する基準は……神の理解を超えるもの」
神ならば選ばぬもの。
神であれば行わぬこと。
神らしからぬ――人間らしさ。
天照が評価してきたものは、必ず不完全であった。
愚かしかったり、醜かったり、歪であったり……神の目線で、不完全で出来の悪い。しかし、人々が一瞬一瞬を紡いできた証のようなもの。そこに尊さを見出し、愛でる。
それが天照にとっての輝きだった。
初めて湯築屋を訪れ、輝かしいと評したときと、なにも変わっていない。彼女は常に、自分にはない輝きを求め、愛してきたのだ。
だから、今回の謎かけの答えも……シロには、わかっている。
――あなたの輝きを見せてくださいませ。
たしかに、天照はシロに対して、輝きを見せろと言った。
天照、というより、湯築屋を訪れる神々は、みな本質を見る。誰もが、シロを天之御中主神と同一の存在として語るのが常だった。
けれども、天照は初めて、天之御中主神ではなくシロとして語りかけたのだ。
他の誰にも伝わっていなくとも、シロにはわかった。
これは単なる誘拐ではない。
ただ人間らしい輝きを見せると要求しているわけではない。
シロに、天照の満足する輝きを見せろと言っているのだ。
神としてではなく……そう。神らしからぬ行いをせよと、迫っている。わざわざ九十九を閉じ込めたのにも、意味があるのだ。今回の行動は、最初からすべて一貫している。
あれは、九十九を手伝っているのだ。
天之御中主神とシロとの対話を望む九十九の手伝いをしている。
シロは、たしかに九十九と約束した。いつか対話し、九十九の望む形にしようと決めている。決めているが……その覚悟が決まらぬのも、たしかであった。
九十九は待つと言っている。けれども、天照はシロの迷いが深いのも気づいているのだ。このままでは、また何年も待たせるかもしれない。
そして、この先。
九十九とどうやって生きていくつもりなのか。また月子のように見送るのか。それとも、別の答えを出すのか。
シロが考えないようにしている事柄だ。
いつまで経っても決まらない。
余計なお世話だ。
天照は、シロに決意をうながすために、強硬手段に出た。よりにもよって、彼女は他の神が抱える問題に、わざわざ自分の力を行使したのだ。
神らしくない。
だが、天照の本気であった。ずいぶんと九十九を気に入っていたのは知っている。湯築屋や、シロの存在についても興味を示していた。だからこそ、彼女は湯築屋の常連として居着いているのだ。
「儂が……」
今すぐに、九十九を救い出す方法ならわかっている。
シロが天之御中主神との対話を済ませ、九十九に手を差し伸べることだ。それが単純で、迅速な解決方法だろう。
天照が求める答えだ。
「シロ様、大丈夫ですか?」
顔色でも悪かったのだろうか。小夜子が心配そうにシロをのぞいている。ふと、その表情が九十九に重なって思えて、急に物寂しくなった。
シロは九十九を救う方法に気づいている。
だのに、それを即断で実行できない。そのような己に愕然としてしまう。
「なにかお手伝いできるなら、おっしゃってください」
これは、シロの問題だ。シロの問題に九十九を巻き込み、天照に選択を突きつけられている。従業員まで巻き込むわけには――。
顔をあげたシロの目に、従業員たちの姿が映る。
みな、小夜子と同じだ。シロのために協力するつもりでいる。
シロに、そのような価値があるのだろうか。
従業員を巻き込んで、選択して――また間違わないとも限らない。
怖いのだ。
シロは間違えた。
またくり返してしまうのが恐ろしくて堪らない。そのせいで、問題を先送りにし、九十九への答えも出せずにいる。
責任などとれない。
「九十九……」
無意識のうちに九十九を求めていた。神の端くれだというのに、ひどく情けない声だ。この場で、一番しっかりせねばならないのは、シロだというのに。
けれども、名を呼んだことで一気に意識が九十九へ向かう。
九十九は……いつもまっすぐだ。
一生懸命に、客の要望に応えようとする。全力でぶつかって、満足させようとするはずだ。
九十九ならば。
ここは湯築屋。天照は客だ。九十九ならば、天照の想像を超える方法で、要求を叶えようとするだろう。
ただ欲しいものを与えるのではない。己のやり方で、客を納得させようとする。一人ではなく、いつも周囲を巻き込んで。
失敗や間違いを恐れず、九十九は常にやり切ってきた。
そんな姿を見守るのがシロの役目だ。
「……天岩戸は、儂には破れぬ」
神である以上、シロに天照の結界を崩すのは不可能だ。
「お前たちに、協力してほしい」
天照の想定を超える〝輝き〟を見せてやるべきだ。
まだ恐れはある。間違っているかもしれぬ。
それでも、シロは湯築屋の主だ。であれば、相応のもてなしが必要であろう。
「天岩戸を破る」
通用するかは賭けであった。
なにせ、試したことがない。天岩戸など、見るのは高天原以来である。その性質は知っているが、熟知しているわけではなかった。
「ど、どうやって……」
みなが息を呑む中、コマが不安そうに声を漏らした。しかし、どのように破るつもりなのか、期待の眼差しも含まれている。
シロにも確信はない。
さきほど、碧が薙刀を持ちだしたとき、天照は攻撃を止めた。
身代金の要求を告げるため……そうではない気がする。天岩戸は鉄壁で、どのような攻撃も寄せつけぬのなら、防御の必要はない。
天岩戸はどのような神をも寄せつけないが――相手が人ならば?
神の力を依り代に使う八雲の術は防がなくともよい。が、碧はまったく神気を持たぬ只人だ。天岩戸を壊す力はなくとも、外観に揺らぎを生じさせた可能性はある。それを悟られたくなくて、あえて攻撃を止めた。
天岩戸を開くのは、神ではなく人の力なのだ。
「準備を頼めるだろうか」
シロは自分の考えを述べ、従業員たちに指示を出す。いつも見守る側なので、こういうことには慣れていない。それでも、彼らはシロのために動いてくれた。
「シロ様は……」
一通りの指示を出し、計画を話したあと、小夜子から問われた。
天岩戸は神の力を通さない。従業員たちの力を借りるしかなかった。
だが、シロにはやっておくべきことがある。
「儂は少し席を外す」
天岩戸を破り、天照の望む輝きを示す。そのためには、シロも相応の準備をせねばならなかった。
「わかりました」
小夜子や、他の従業員もシロがなにをするのか問わない。ただ、自分たちに与えられた仕事を呑み込んでいるようだった。
シロは踵を返して、湯築屋の庭へと向かう。他の者たちも、それぞれの役割を果たしに行った。




